トーマス・ツェートマイアとフランス国立オーヴェルニュ管弦楽団の演奏会を聴いて

以前からトーマス・ツェートマイアのヴァイオリンを実演で聴いてみたいと思っていた。ディスクで聴くその音は、ときに肺腑を抉るほどに厳しく研ぎ澄まされていながら、歌のしなやかさが失われることはない。繰り返し聴いてもはっとさせられるほど繊細な弱音の表現は、彼ならではのものだろう。その一方で、オーケストラと渡り合う場面でも、音には芯があり、響きは澄んでいる。こうした魅力を示すものの一つが、フランス・ブリュッヘンが指揮する18世紀オーケストラとのベートーヴェンの協奏曲の録音かもしれない。そのようなツェートマイアのヴァイオリンの音を演奏会で聴く機会には、これまで恵まれなかった。彼が最近、指揮活動に力を入れているのも、その要因かもしれない。

4月16日、ツェートマイアのヴァイオリンを聴ける機会がようやく訪れた。彼がフランス国立オーヴェルニュ管弦楽団を率いて、アクロス福岡演奏会を行なったのである。このオーケストラの弦楽セクションが、彼の指揮の下、モーツァルト、バッハ、クセナキス、そしてブラームスの作品を奏でた。カントルーブの歌曲集《オーヴェルニュの歌》で知られるフランス中南部の山がちな地域から来たオーケストラは、ラ・フォル・ジュルネ音楽祭にしばしば出演しているとのこと。それぞれの作品にどこまでも真摯に取り組みながら、音楽を奏でる喜びを絶えず感じさせる演奏の姿勢には好感を持った。親密さを感じさせるアンサンブルで、温かい響きを聴かせてくれる。

最初に演奏されたのは、モーツァルトのト長調の弦楽三重奏曲(KV.562e)の一楽章の断片を、ツェートマイアが弦楽合奏のために編曲した一曲。弦楽三重奏のための変ホ長調のディヴェルティメント(KV.563)と同様、作曲家の晩年に書き始められ、未完のままに残されたという。ツェートマイアは、提示部をオリジナルの弦楽三重奏で、展開部から先を弦楽合奏で演奏するように編曲していたが、再現部では、弦楽三重奏との協奏が繰り広げられる場面もあった。そのような編曲によって、簡素さを志向しながら、短いモティーフを徹底的に、かつ愉悦を引き出すかたちで展開させようとする作曲の方向性が伝わってきた。

今回、ツェートマイアの指揮で聴いた弦楽三重奏曲の一楽章の再構成は、晩年のモーツァルトが繰り広げようとしていた、ベートーヴェンへ通じるような音楽の姿を示すと同時に、バロックのコンチェルトを聴くような印象も与える。この点は、続いて演奏されたバッハのヴァイオリン協奏曲と呼応する。ツェートマイアは、二曲の協奏曲を指揮しながら奏でたが、その演奏は彼のヴァイオリンの美質を遺憾なく伝えるものだった。合奏を含め、モダン楽器によるオーソドックスな様式によるバッハへのアプローチを示していたが、その必然性を感じさせる演奏だった。

ツェートマイアは、基本的にはトゥッティも一緒に弾きながら指揮していたが、彼の独奏が始まるとき、合奏の響きのなかから彼の音がごく自然に立ち上がってくるのには感嘆させられた。そこから独奏が、即興性を帯びながら繰り広げられていくが、その過程を一本の細い、そして楽章を通じて途切れることのない線が貫いている。同じモティーフが反復されるときなどに、彼独特の弱音が聴かれたが、それが響きに奥行きを与えながら聞こえてくる際の存在感は、実演でこそ味わえるものであるものである。微かな音からの繊細な歌は、同時に自然な息遣いを伝えていた。

チェンバロが通奏低音に加わった合奏は、独奏に緊密に呼応しながら、バッハの音楽の豊かさを伝えていた。その演奏は、ピリオド楽器によるもののような俊敏な躍動や、劇的な対照を感じさせるものではないが、ツェートマイアの独奏と組み合わさることによって、バッハの作品のたたずまいを示すものとして響いた。それぞれの協奏曲の緩徐楽章では、ツェートマイアのヴァイオリンにじっくりと耳を傾けられたが、その響きの自然さと奥行きの深さにはあらためて驚かされる。フレージングも音楽自体のダイナミズムと一つになって、バッハの息遣いを伝えている。

自然に胸に沁みる協奏曲の演奏もさることながら、今回とくに嬉しかったのは、アンコールにベルント・アロイス・ツィンマーマンの無伴奏のソナタの一楽章が奏でられたことである。この曲の演奏でも、ハーモニクスがはかなく消え入る終わりまでひと筋の線が貫かれている。ここまで音楽の展開の必然性を感じさせるのは、レコーディングを含めてこのソナタを繰り返し演奏してきた彼ならではだろう。激しく高揚して、躍動的なモティーフが繰り返し打ち込まれる中間部では、楽器と奏者の存在を忘れさせるほどに、ツェートマイアはツィンマーマンの音楽と一体になっていた。そこにはバッハの精神があるとツェートマイアは語っていた。

演奏会の後半はクセナキスの《アロウラ(大地)》で始まったが、1971年に発表されたこの作品の演奏は、風が吹き交う空間に一つの塊が立ち現われ、それが生気を帯びて蠕動し始めるような現象を想像させながら、音楽の展開自体を楽しませるものだった。それによって、一つのモティーフにもとづく音楽の形が示されたのは感銘深い。それに続いてブラームスの弦楽五重奏曲第2番の弦楽合奏版が奏でられたが、最初はテンポの速さに驚かされた。ディスクで親しんできたシャーンドル・ヴェーグとカメラータ・アカデミカ・ザルツブルクの演奏より数段速い。だが、それによって音楽の湧き上がるような躍動が、実に生き生きと伝わってくる。

弦楽合奏による演奏であることも相まって、五重奏曲の最初の楽章では、ブラームスが保ち続けた情熱が一つのうねりとなって迫ってきた。この楽章は、最後にテンポを落として静かに消え入っていくが、そのはかなさは、主部の躍動によっていっそう際立っていた。中間の二つの楽章では、重層的な響きのなかから歌が豊かに繰り広げられるのが印象的だったが、もう少し寂しさを感じさせる場面があってもよかったかもしれない。最終楽章の躍動感と高揚感には、今回のツェートマイアとオーヴェルニュ管弦楽団のブラームスへのアプローチの特質がよく表われていた。急速なコーダに至るまで、一つのクレッシェンドを聴く思いだった。

アンコールには、フランクの弦楽四重奏曲のスケルツォと、ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》が演奏された。後者ではチェロの独奏が味わい深かった。オーケストラの魅力とともに、フランスの音楽にも通じたツェートマイアの側面も伝える、生気に富んだアンコールの演奏だったが、それを聴きながら、彼がバッハからクセナキスに至るまで貫かれている音楽の形──それは響きの層として、あるいはモティーフの運動として現われながら曲を構成する──を、ヴァイオリンの可能性を掘り下げるなかで摑んでいることを反芻していた。それを独奏、アンサンブル、指揮と多方面で展開していることを、最近八女市の黒木の大藤が降り注ぐように咲いているのを見ながら思い返した。神社の敷地を覆い尽くすようなその枝も、一本の幹から広がっている。