水無月の仕事など

暑熱に追い立てられるように梅雨が去ってしまいました。七月が来る前に住んでいる場所の梅雨明けを聞いたのは初めてです。陽射しこそ真夏ほどではないものの、気温の高さは尋常ではありません。いきなりの猛暑の襲来に身体が対応できませんし、先が思いやられます。今年も世界各地で猛暑に起因すると見られる山火事や、未曾有の洪水などの災害が起きていると聞きます。気候変動の影響が表われていると思えてなりません。未だ終熄しないパンデミックも示すように、テクノロジーを駆使した人間の自然界への介入が、人間に跳ね返りつつあるのは確かでしょう。

太宰府天満宮の手水鉢に敷き詰められた紫陽花

こうした状況を前にして、技術そのものを、そこにある自然と人間の関わりを、脆い生きものの一つとして生きていく可能性へ向けて、根底から問わなければならないはずです。このことは、現在「SDGs」のような言葉を被りながらテクノロジーを動かし、人間も自然も酷使し続けている者の立場を、根幹から問いただすことと表裏一体だと考えています。「脱炭素」を唱えながら、また現在の電力の逼迫に乗じて、今も福島とウクライナ各地で生命の根幹を壊す脅威を剝き出しにしている原子力発電所をさらに動かそうという言辞には、そのような者の地金が表われています。

ヴァルター・ベンヤミンの『一方通行』に収められたテクストの一つには、テクノロジーを自然と人間を支配するための手段として用いる「帝国主義者」が世界大戦の破局を招き寄せたことを批判しつつ、自然と人間の関係に精通するものとして技術そのものを捉え直そうとする思考が表われています。これと「技術的複製可能性の時代の芸術作品」の議論からベンヤミンの技術への問いを取り出し、先に掲げた問いの一端に取り組んだ論文を、三か月ほど前に書きました。近々お届けできると思います。その見通しが立ちましたら、あらためてSNSなどでお知らせいたします。

それから、2020年の12月5日には、ベンヤミンの歴史哲学を再検討しながら、地を這う生きものの歴史の可能性を、近代史の過程を貫く暴力によって人界の果てに追いやられた者の断絶の記憶から問う論考を、京都大学人文科学研究所主催のシンポジウム「抑圧されたものの痕跡を求めて/辿って──記憶の存在論と歴史の地平II」で発表する機会をいただきましたが、それを基にした論文をまもなくお届けできるはずです。それについても近々お伝えすることとして、今はこの六月に公にする機会を得た一篇の論文と一篇の批評をご紹介しておきたいと思います。

6月1日に発行された実存思想協会の『実存思想論集』第37号の特集「ベンヤミンと実存思想」に、その趣意文と「貧しい時代の詩──ベンヤミンとハイデガーの反転の詩学」と題する論考を寄稿しました。後者は、一年前のこの協会の大会における講演の内容を少し縮約したものです。時代の「貧しさ」への洞察を出発点とする二人の詩学を対照させ、マルティン・ハイデガーが語る「人間」の「詩」を越える〈うた〉の可能性を探る詩学への戸口をベンヤミンの思考に見届けようとするものです。彼がベルトルト・ブレヒトの詩を論じた議論にも触れています。

今回の拙論は、これから旧稿も見直しながら展開したいと考えている〈災後のうた〉の美学の緒論とも言うべき性格も有しています。なお、今回の「ベンヤミンと実存思想」特集には、「〈悲劇的実存〉と言語──初期ベンヤミンにおける悲劇解釈」と題する森田團さんの論考をはじめ、力のこもった論考が並び、ベンヤミンの思考を新たな布置の下で読み直す契機となったのではと思っております。この協会の会員はじめ、「実存思想」に関心を向けてきた人々が、ベンヤミンの思考に興味を持つ機縁になれば幸いです。知泉書館よりお求めいただくこともできます。

6月15日に公開されたMercure des Arts Vol. 81には、5月27日に広島文化学園HBGホールで開催された広島交響楽団の第412回定期演奏会批評を寄稿しました。音楽総監督を務める下野竜也と広響のアンサンブルが自然な歌の息遣いに結実したブルックナーの交響曲第7番ホ長調の演奏の意義を中心に論じ、今回がオーケストラ版の世界初演だったというトミ・ライサネンのマリンバ協奏曲「ポータル」にも論及しました。あらためて温かい歌に貫かれたブルックナーの交響曲の演奏は、このコンビがこれまでの五年間で目指してきたものを示していたように思います。

6月には、新作ではありませんが、興味深い映画を二篇見ることができました。一つは、「タル・ベーラ 伝説前夜」の一環として上映されていた『ダムネーション/天罰』(1988年)です。以前に見た後の作品にも通じる終末を感じさせる世界が、モノクロームの画面に広がりますが、そのなかでの音ないし騒音の雄弁さをあらためて思いました。崩壊の気配を感じさせる事物の表現が際立つ映画と言えます。個人と集団、両方の次元で反復や循環が寓意的に示されるのも印象的でした。鎖された街の酒場「タイタニック」でのパーティーにおける集団の輪舞は、多分に暗示的です。

映画のなかで降り続く雨に、街も、主人公の男も沈んでいくように見えます。彼は渦に巻き込まれるように、罪の連鎖に搦め捕られていきます。その救いなき姿とそこに付きまとう野犬の姿は、すでに最後の作品となった『ニーチェの馬』を暗示するかのようです。バーのクロークの女性に光が当てられるあたりや、ラストシーンの主人公の歩みなど、アンジェイ・ワイダの映画を思い起こさせます。『ダムネーション』は、タル・ベーラの映画がどのような系譜から生まれているかも感じさせる作品と言えるかもしれません。彼の他の作品をあらためて見たいと思いました。

もう一篇の映画は、セルゲイ・ロズニツァ監督の『ドンバス』です。表題の地域の親ロシア「分離派」による実効支配の下で起きたことを、綿密なドキュメンテーションにもとづくフィクションとして描き出した2018年の劇映画ですが、それだけに出来事がいっそう生々しく迫ってきます。今、同じ地域で、あるいはロシア軍がこの「分離派」とともに支配下に収めた地域で起きつつある破壊──それが、おぞましいことに、当時と同様「ネオナチ」からの解放を名目に行なわれているのです──の内実が剝き出しの姿で突きつけられるのを前に、吐き気すら覚えました。それくらい強烈な映画でした。

ここにあるのは、物理的な破壊だけではなく、精神の破壊でもあります。戦争は、人々の生活を壊し、家族のあいだを引き裂くだけではありません。その「例外状態」は、腐敗を蔓延らせ、暴力を日常化していきます。そして、フェイク・ニュースによるプロパガンダが絶えず繰り返されることによって、そうした状況は、ますます出口のないものになっていきます。こうしたことが映画のなかで、断片的なエピソードに細かな関連を作ることによって、緻密に描かれていたのも印象的でした。このように戦争状態が人間を内側から破壊していくさまは、他人事ではないようにも思えました。

ロシアによるウクライナの侵略が始まってからすでに四か月が経つわけですが、戦火が止まないのに乗じて、軍備の増強が声高に主張され、それをやむなしとする空気すら醸成されつつあります。しかし、ロズニツァの映画が、そして今月77回目の「慰霊の日」を迎えた沖縄での地上戦が露わにしたのは、軍隊はけっして民衆の命を守らないことです。さらに、実質的には米軍との一体性の強化である軍備の増強が、沖縄の人々の生活をさらに壊すことも、それがテロルにテロルで応じる土俵に乗って、世界の分断を深めることでしかないことも明白なはずです。

日常生活のなかの人と人の関わりのひだに注意を向けながら、こうした愚挙に静かに異を唱え続けてきた詩人で作家の森崎和江さんが逝去したとの報せが、下旬になって届きました。岩波文庫で復刊された『まっくら』を読んだり、朝日文庫版の『からゆきさん』を学生に紹介したりしながら森崎さんの世界に関心を深めていたところだっただけに、訃報を重く受け止めているところです。森崎さんの作品に興味を持つきっかけになったのが、古書店で見つけた『異族の原基』を読んだことでした。つい先日も、『草の上の舞踏』にもとづくドキュメンタリーを見せてもらったところでした。

植民地だった大邱からの自身の歩みを見つめ直し、そこから近代史を見通す歴史への洞察に裏打ちされた詩が、森崎さんの作品を貫いているように感じます。半島や島々へ通じる海を、あるいは炭山の闇を見つめながら、人界の果てへ追いやられた者たちへ注意を向け、そうした歴史の暴力に晒された者たちの境遇を生活のなかから感じ取る細やかな言葉を、これからも読み継いでいきたいと思います。とくに『まっくら』などに読まれる、「歴史」に記されることのない記憶の証言を反響させる言葉の可能性は掘り下げていきたいと考えています。心からご冥福を祈ります。