ペンテジレーアとカルメン──現代のオペラのために

8月20日、広島でこれまでに経験したことのない土砂災害を目の当たりにしました。その前日の夜から、私の自宅あたりでも、至近距離の落雷が続くなか凄まじい雨が降り続いて、眠れぬ夜を過ごしたわけですが、電車で一駅しか離れていないところで土砂崩れが起きているとは思いもよりませんでした。夜が明けて、ニュースの映像で土石流の爪痕を目の当たりにし、唖然とせざるをえませんでした。電車や自家用車の窓越しに見た覚えのある風景が一変していました。自然の威力を前に人間がいかに無力かを、あらためて思い知らされました。

20日未明に、広島市の安佐南区から安佐北区にかけての山沿いに局地的に降った豪雨による土砂災害が起きてから10日が経つわけですが、その間、日に日に広がる被害にやるせない気持ちになりました。8月30日現在、死者は72名を数え、未だ行方不明の方が2名おられます。すでに新聞などで報じられているとおり、勤め先の大学の関係者も一人犠牲になりました。将来を嘱望されていたクリエイターでした。今は、彼を含め亡くなった方のご冥福を祈るとともに、被害に遭われた方の生活の復旧を心から願わずにはいられません。

このような困難な状況にあってこそ、芸術は重要な役割を果たしうるのではないでしょうか。たしかに、物質的な意味での生活の立て直し、そして生活基盤の再整備は急がれます。しかしながら、時に立ち止まって、自然の力に、さらには人間が作り出した社会のなかで作用する力に曝されながら生きている自分を、根底から見つめ直したうえで、一歩ずつ前に進むのでなければ、生きること自体が、一部の人々の利害に搦め捕られかねませんし、真の意味での生活再建もありえません。芸術は、生きていることを心底から感じ取りながら、今ここに生きる自分を深く省みる契機をもたらすのではないでしょうか。

なかでも音楽は、独特の直接性で聴く者を揺り動かし、その生の深淵を垣間見せます。そして、広島ですでに長年にわたって取り組まれてきたオペラには、このような音楽の力を舞台空間で発揮させることによって、現代の世界に生きることを、そこにある葛藤や不条理をも包み隠さず照らし出し、根底まで掘り下げる場を開く潜在力があるはずです。私が現在、主催組織の委員の一人としてごくわずかながらお手伝いさせていただいている、ひろしまオペラルネッサンスの「ルネッサンス」も、そのようなオペラの潜在力を今に引き出すという意味での「再生」である必要があるでしょう。そして、それは同時に、「オペラ」自体の根本的な変革でなければならないと考えています。

オペラは、今も一部の劇場でそうであるように、富める者の道楽であってはなりません。あるいは、そのイミテーションとして消費される「コンテンツ」であってもなりません。オペラがそのようなものとして飼い馴らされ続けるのならば、19世紀の遺物として消えてしまったほうがよいでしょう。オペラは、現代の世界に生きること自体に必要とされる芸術でなければなりません。そして、順応を拒み、ラディカルであることを貫くことによってこそ、オペラはこのような芸術でありうると思われます。8月の下旬には、このようなオペラの可能性を考える重要な機会に恵まれました。

広島で土砂災害が起きた翌日の8月21日の夜、サントリー芸術財団サマーフェスティバル2014の一環として行なわれた、フランスの作曲家パスカル・デュサパンの管弦楽作品を特集した演奏会を、サントリーホールで聴きました。この日の演奏会で最も聴き応えがあったのはやはり、デュサパンの新作オペラ『ペンテジレーア』にもとづく新作の世界初演でした。デュサパンは、このハインリヒ・フォン・クライストの同名の戯曲にもとづくオペラをすでに書き上げている──その初演は、2015年3月31日にブリュッセルのモネ劇場で行なわれるとのこと──そうですが、今回の演奏会のために作曲家は、そこから三つの場面を取り出し、それを《風に耳をすませば》という表題の組曲にまとめていました。

ただし、組曲とはいえ、密度の濃い一貫した流れを具えているので、全体を一曲の演奏会用モノドラマとしても聴くことができるのかもしれません。その冒頭に聴かれるナイーヴですらあるハープのメロディは、子どものように善悪の彼岸にあるペンテジレーアを象徴するものでしょうか。戦争下のトロイアを舞台とするクライストの戯曲において、このアマゾン族の女王は、共同体の掟を侵すかたちでアキレウスに恋い焦がれるも、最終的には彼に欺かれたことへの怒りに駆られて、このギリシアの英雄の肉体を犬たちとともに引き裂いてしまうのですが、この出来事を予感させるかのように、ハープのメロディの後には、不穏な響きが低音から立ち上がってきます。その後の音楽の展開は、実にドラマティックかつソプラノの声を生かしたもので、ナターシャ・ペトリンスキーの力強い声とともに、ペンテジレーアの情動が生々しく伝わってきました。

この演奏会の翌日の夜には、アンスティチュ・フランセで、ブリュッセルに産み落とされようとしているオペラ『ペンテジレーア』をめぐって、デュサパン、このオペラのリブレットを書いたベアーテ・ヘックル、細川俊夫による鼎談が行なわれ、オペラの作曲のプロセスについて詳しく話を聞くことができました。デュサパンとヘックルは、トロイア戦争の時代を舞台とするクライストの『ペンテジレーア』のうちに現代の世界を見て取り、そこにある愛と掟の葛藤を一つの焦点としながらオペラを作り上げたそうです。

その際に、クライストの言葉の一部を、エルンスト・ユンガーらが書いた、現代の人々の諍いや戦争のありさまをより生々しく伝える言葉で置き換えたという話は、古典的なテクストから現代のオペラのリブレットを作る際の一つの行き方を示すものとして興味深かったです。そして何よりも、テクストを広い意味で歌うことによって、そこに込められた思想や情念が深いところから身体的に浮かび上がってくる可能性こそが、オペラの作曲を支えているという、現代を代表する二人のオペラ作曲家の言葉は、今日オペラに携わる者すべてがあらためて噛みしめるべき言葉と思われました。

デュサパンのペンテジレーアは、ジョルジュ・ビゼーのカルメン、アルバン・ベルクとベルント・アロイス・ツィンマーマンのマリー、ベルクのルルといった女性たちに連なる人間像を浮き彫りにするのか、興味をそそられるところですが、奇しくも今年のひろしまオペラルネッサンスの公演の演目は『カルメン』。しかも、今回の公演では、岩田達宗の演出の下、この最もポピュラーなオペラの一つに付いた手垢を削ぎ落とし、ビゼーが書こうとした形に再構成して上演する予定で、そこへ向けた稽古が本格化しているところです。

0927昨日、そのような『カルメン』の公演へ向けた演出家によるトーク・イヴェントが開催され、作曲家が構想した形にこのオペラを凝縮させることで、作品のどのような側面が浮かび上がるのか、興味深い話が聞くことができました。周知のように、『カルメン』には初演当初から、上演の制約のために、作品にとって本質的とは言いがたい人物や場面が付け加わっていましたし、ビゼーの死後にはエルネスト・ギローによるレチタティーヴォも作られています。こうした当時の上演のために付加された要素を拭ってみると、ビゼーの音楽によって、同時代の社会の抑圧に苛まれながら生きていて、それでもなお自由を貫こうと身を賭する人間の姿が、今も戦慄を覚えるほど鮮烈に描かれているとのことです。

ビゼーは、当時の観客の反発を買ってでも、カルメンに象徴されるそのような人間を、その剝き出しの生きざまにおいて救い出そうと試みたわけですが、そのようなオペラによって彼は、あたかも親殺しのように自分自身をも解放しようとした──ドン・ホセがミカエラの許に帰らなかったのは、そのことを暗示しているかもしれません──という見方も、それまで優等生を演じ続けた彼の生涯を顧みるなら説得的でしょう。そして、ロマの女カルメンにしても、バスク地方のナヴァラ出身のドン・ホセにしても、スペイン社会の周縁に追いやられ、差別されてきたマイノリティに属しています。

ビゼーのオペラにおいて、このような主人公が語るのではなく、歌うことが強調されている点は、確かに重要でしょう。語ることによって自己を同定させるのではなく、おのずから歌うことによって自由を羽ばたかせるのです。その歌の美は、アイデンティティにしがみつくことが殺されることに近づきつつある現代の社会の暴力を鋭く照らし出しながら、血と肉をもって生きることを、その核心にある自由において輝かせるにちがいありません。

余分な要素を削ぎ落として、ビゼーが書いたこの強い歌に力点が置かれる今回の『カルメン』の公演が、現代のオペラを創り上げる場としての広島を、その内外に知らしめる契機となることを願っているところです。広島は、現代の世界に生きること自体に必要なオペラの世界的な拠点となるべきですし、初演から140年余を経てなお現代性をまったく失うことのない『カルメン』を上演することは、そのまたとない好機のはずです。そして、この公演に、広島の内外から多くの方が集まることを心から願っております。公演は、9月27日(土)と28日(日)のいずれも午後2時より、広島市中区のアステールプラザ大ホールにて開催されます。

 

広告