2024年春の仕事

ここへ来てようやく春らしい陽射しが注いでくるようになりました。それまで福岡では、気温は平年と変わらないものの、重い雲が垂れ込め、時折雨風が強くなる日が続いていて、気分も体調も落ち込むことが多かったので嬉しく思っています。学期の始まりの慌ただしさもようやくひと段落し、溜め込んだ仕事に少しずつ取り組んでいるところです。美学と哲学の講義にも、またこれらを深めるゼミにも熱心な学生がいて刺激を受けています。ゼミではエドワード・W・サイードの晩年の著作を読み始めました。彼が何を問い続けてきたのかを顧みることをつうじて、現在の厳しい状況を見通す思考の方途を探れればと思います。

3月8日に広島交響楽団の演奏会を聴くために訪れた広島にて

さて、3月から4月の仕事についてご報告しておきたいと思います。まず、書評紙『週間読書人』の3月1日号に、郁文堂から昨年末に刊行されたヨアヒム・ゼング編/細見和之訳『アドルノ/ツェラン往復書簡1960–1968』の書評を寄稿しました。手紙の遣り取りをたどると、パウル・ツェランがいかにテーオドア・W・アドルノによる「アウシュヴィッツ以後」の詩学を待望していたかが伝わってきます。詩人にその最期まで重くのしかかったゴル事件に関しても、彼は哲学者の助力を期待していました。しかし、アドルノはそうした思いに応えきれないまま世を去り、その翌年にツェランは自死を遂げることになります。

ツェランが望む「対話」は実現しなかったとはいえ、編者の評注を読むと、彼とアドルノとのあいだに、それぞれの作品に跡を残すほどの交流があったことが伝わってきます。ツェランの詩作について踏み込んだ議論を含む訳者解題を含め、詩とは何か、詩と哲学の関係はどのようにありうるかを強く問いかける一書と思います。その批評に取り組む過程で、ツェランの「死のフーガ」と「迫奏(エングフュールング)」を照らし合わせる必要を感じ、その後ペーター・ソンディのツェラン論などを頼りに、これらの二篇をはじめとする詩に取り組みました。3月16日には、その中間報告を含む研究発表を形象論研究会で行ないました。

新潟大学の駅前のエクステンション・サイト「ときめいと」を会場に開催された第18回の研究会では、「危機のイメージ/イメージの危機──形象のゆくえを危機(Krise)/批判(Kritik)/戦争(Krieg)の3Kから考える」というテーマの下でシンポジウムが行なわれ、その際に竹峰義和さん、石田圭子さん、三木順子さんに続いて、「人間の彼方からうたう──破局からの詩学のために」と題する研究発表を行ないました。シンポジウムをコーディネートしてくださった高安啓介さんと新潟での研究会の場を準備してくださった田邉恵子さんにあらためて感謝申し上げます。他の三名のパネリストの発表からも多くの刺激が得られました。

今回の発表では、「まだ歌をうたうことができる/人間の彼方で」というツェランの「絲の太陽」の詩句に、被爆を体験した原民喜が「鎮魂歌」に記した言葉に呼応するものを見ながら両者の詩作の一端を検討しました。それをつうじてホロコースト、原爆といった20世紀の出来事を経て、人間そのものが根底から問われ続けている危機的な現在にあって「うたう」可能性を問う、〈破局からの詩学〉とも言うべき思考の方向を探ったところです。すでに何年かにわたって取り組んでいるテーマですが、破局の経験として詩を考えることに一定の道筋をつけなければと思っています。発表の内容の一部は、およそ一年後にお届けできるでしょう。

形象論研究会の後で訪れた新潟市美術館でパウル・クレーの《プルーンのモザイク》と再会

同じ頃に西南学院大学の『国際文化論集』に、「翻訳からの正義と救済──ベンヤミンの『翻訳者の課題』と脱植民地化の文学の可能性」と題する論文が掲載されました。昨年、ワルシャワでの国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究集会で発表した内容に、新たな内容を付け加えながらまとめたものです。ベンヤミンの正義論と翻訳論の相即を辿りつつ、支配関係の解体の実践としての翻訳に論及しています。そこで触れた言葉への愛に貫かれながら支配的な「歴史」に介入し、抑圧されてきた記憶を反響させる翻訳の「微かなメシアの力」。それは、広い意味での聞き書きの文学を視野に入れながら掘り下げられるかもしれません。

4月に入って形象論研究会の雑誌『形象』の第6号が公開されました。オンライン・ジャーナル化されて2号目になります。大阪大学学術情報庫OUKAでご覧いただけます。特集「ベンヤミンからのイメージ論」に趣意文と「創造の解放からの救済へ──ベンヤミンのイメージの美学の射程」と題する論考を寄せました。彼が「技術的複製可能性の時代の芸術作品」に語られる「知覚論」としての美学を、青年運動に関わっていた時代から一貫したものとして検討し、知覚の解放としての陶酔とそこからの覚醒をつうじて、仮象批判ないしは神話の破壊を含んで出現するイメージの経験を探究してきたことを描き出そうとする試論です。

前後しますが、2月の末日付けで刊行された原爆文学研究会の機関誌『原爆文学研究』第22号に、「傷からの芸術──ヒロシマからの芸術が問いかけるもの」と題する論考を寄せました。原民喜の作品集の編者解説として書かれた大江健三郎の言葉にある核時代における人間の「赤裸」の姿を、ベンヤミンが「経験と貧困」というエッセイに浮かび上がらせた、「破壊的な奔流と爆発の力の場の真んなかにいる人間の身体」の剝き出しの姿と照らし合わせ、ヒロシマ以後の「傷からの芸術」の展開の意義に迫ろうとするものです。昨年6月4日に広島で開催された藝術学関連学会連合第17回公開シンポジウムでの研究発表の内容をまとめ直しました。

原民喜の詩作と殿敷侃の芸術の一端を、歴史の断絶とも重なる、癒えることのない傷からの芸術の展開として省みたうえで、傷を名づけ続け、それを分かち合う回路を開くところにヒロシマ以後の生存の芸術の可能性を探る方向性は、先に触れた〈破局からの詩学〉のそれとも重なるものです。この『原爆文学研究』第22号には、昨年12月9日に広島大学で開催された研究会のワークショップ「記録からひらく表現」の記録も収められています。それをつうじて小林エリカさんと福田惠さんの素晴らしいプレゼンテーションが文字化されたことは、非常に貴重と思います。それに対するささやかなコメントも収められています。

諸岡池の夜明け

この春は音楽に関わる仕事もいくつか公にしました。ここまでお伝えしてきた研究を貫く問題意識と共鳴するものを含んでいますが、2024/2025年の新国立劇場のシーズンでの初演(2025年8月11日より)が予定されている細川俊夫さんの音楽、多和田葉子さんの台本による新作オペラ《ナターシャ》に寄せる小文「うめきが反響する言葉が生まれる地獄の底へ」を、同劇場の予告フライヤーとオペラ関連ニュース(ウェブ)に掲載していただきました。この幾重もの意味で新しいオペラについての拙稿は、細川さんから音楽の構想をうかがいながら、またその過程で多和田さんによる台本の内容もお聞きしながらまとめたものです。

拙文が現代世界の底に渦巻くうめきを、新たな愛へ向けて越境的にに交響させる作品への関心が広がる機縁になればと願っております。奇しくもそのウェブ版が公開された3月8日には、「下野竜也音楽総監督ファイナル」と題して広島交響楽団の特別定期演奏会が開催され、そこで細川さんのフルート協奏曲《セレモニー》が取り上げられました。これを上野由恵さんの素晴らしい独奏で聴けたのは幸いでした。また、7年にわたって深められたアンサンブルによって、ブルックナーの交響曲第8番の核心にあるものが響いた演奏会でもありました。この演奏会の批評を3月19日付の中国新聞に寄稿しました。

こうして広響の下野さんの時代が終わることには感慨深いものがあります。2019年から2020年にかけてベートーヴェンの交響曲と細川さんの協奏的作品が演奏されたディスカバリーシリーズで曲目解説を担当させていただいたことは、この二人の作曲家の世界について多くを学ぶ貴重な機会となりました。細川さんのヴァイオリン協奏曲《祈る人》が庄司紗矢香さんの独奏でイギリス初演されたBBC交響楽団の2月9日の演奏会のプログラムに、細川さんのプロフィールを寄稿する機会がありましたが、そこで出発点としたのも、広響のシリーズで細川さんの作品、とくに「Voyage(旅)」シリーズが取り上げられたことでした。

3月下旬から4月初旬にかけては、家族の用事もあって間を置かずに東京へ出かけることになりましたが、その際にいくつか演奏会を聴けたのは幸いでした。とくに3月22日にゲーテ・インスティトゥート東京で開催されたアウレウス三重奏団と青木涼子さんによる「WELTENTRAUM~世界をつなぐ音楽」は興趣に富んでいました。一つの流れのなかで多様な夢の世界を巡り、夢見ること自体を掘り下げる演奏会でした。クラリネット独奏のための《エディ》をはじめ、細川俊夫さんの作品を二曲聴けたのも貴重でした。青木さんのパフォーマンスをつうじて、言葉と音楽が身ぶりとともに結びつくなかから生じる出来事を、その気配から感じることができました。この演奏会の批評Mercure des Arts Vol. 103に掲載されました。

その翌日に新国立劇場でヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の上演に接したことになります。それについて思ったことは別稿に記したとおりです。4月6日に聴いた読売日本交響楽団の定期演奏会では、ボフスラフ・マルティヌーの《リディツェへの追悼》の実演に接することができました。ナチスによるリジツェ村虐殺の犠牲者の魂を揺り起こそうとするかのような強い響きのなかから、その救済への祈りがふつふつと湧き上がるのが伝わってくる演奏でした。これと通底するかたちで、音楽の強烈な躍動のなかから魂の救済への祈りがとめどなく湧き上がる出来事は、オリヴィエ・メシアンの《昇天》からも感じられました。

マルティヌーの《追悼》、メシアンの《昇天》、そしてこれらのあいだに演奏されたベーラ・バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番のいずれにおいても旋法にもとづく音楽の展開が特徴的でした。これらの作品を、シルヴァン・カンブルランの指揮で聴けたのは幸いでした。バルトークの作品における金川真弓の独奏は、その言葉を明確に響かせていました。フィナーレの堰を切ったようにほとばしり出る歌には惹きつけられました。緩徐楽章の後半の歌の深い息遣いも印象的でした。闇が深まっていく時代に、古い歌の記憶に耳を澄ましながら、自由への渇望を新たに響かせようとする作曲家の試行に思いを馳せながら聴きました。

こうした東京の演奏会などへ出かけたいのはやまやまなのですが、学期が始まり、大学の仕事も忙しくなってきているので、まずは研究と執筆などの時間を作ることを優先せざるをえません。大学で、また福岡では、初夏にかけて関係する催しがあります。冒頭で触れたサイードの批評、そして原民喜が体験した広島の被爆の記憶が関わるものです。これらについては、また折を見てお伝えいたします。ついでながらお伝えしておきたいのは、4月11日付の西日本新聞の文化面に、クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』についての談話を掲載していただいたことです。

この映画の文脈を解き明かしたロバート・キャンベルさんの談話と併せてお読みいただければと思いますが、映画がセンセーショナルな現象になっていることを、ベンヤミンの芸術論やアドルノの文化産業論などの意義を考え、被爆の記憶の表現をたどってきた視点から批判的に考察しました。林京子の「トリニティからトリニティへ」と小田実の『HIROSHIMA』にも触れました。これらの表現を顧みながら話題の映画を吟味し、核の表象について議論を深める契機の一つになる談話であるとすれば幸いです。核の危機は深刻さを増しています。その現在を地の底から照らしながら、生への渇望をうたう回路を探っていきたいと思います。

諸岡池の周りに咲く白い菖蒲

冒頭で触れたようにだいぶ暖かくなりましたが、昼間の陽気にはすでに初夏の兆しが感じられます。近所の池の周りには、菖蒲が咲いていました。木々や草の葉も夏の色に変わりつつあります。これから休日が続きますので、仕事の合間を縫って、福岡で花を眺める時間も少し持てたらと思うところです。昨年見に行った黒木の大藤は見事でした。二年ぶりに柳川を訪れるのも一興かもしれないとも考えましたが、今はどこも観光客が多いかもしれません。ともあれ、夏にかけていろいろと慌ただしくなるうえ、さすがに息切れしかかっているので、連休は体調を整えながら仕事に取り組みたいと思います。夏の暑さになる地域もあると聞いています。旅行先を含め、さまざまな場所で、まずはお身体に気をつけながらお過ごしください。

新国立劇場におけるヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の上演を観て

「闇に包まれた夜の国」から来て、今またそこへ還ろうとしている。深い傷を負ったトリスタンは、みずからの来し方と行く末をイゾルデにこう語りかけるが、その言葉は《トリスタンとイゾルデ》という楽劇そのものを暗示しているようにも聞こえる。チューリヒでのマティルデ・ヴェーゼンドンクとの出会いと、ショーペンハウアーの思想への共鳴のなかから生まれたヴァーグナーの作品を貫くのは、この「夜の国」の翳である。その闇は第二幕の「愛の二重唱」でも触れられるように、恋人たちを隠すと同時に、自他の区別も、個としての生命も溶解させる。それをつうじて一つになることの憧れを、ヴァーグナーの音楽は歌い続ける。

おそらくはこうしたことを踏まえながら、新国立劇場における《トリスタンとイゾルデ》の上演の舞台は、翳を基調としていたのだろう。2024年3月23日の公演における第二幕の終景と第三幕の最初の場面におけるトリスタンの歌に耳を傾けながら、そのように思いを巡らせていた。今回の上演は2010年に初演されたプロダクションの再演であるが、デイヴィッド・マクヴィカーの演出によるその舞台において、装置の大半は黒に塗りつぶされ、ドラマは薄明かりのなかで演じられる。その際、恋人たちを照らすのは、凶兆のような赤い月。対してマルケ王の一行が登場するときには、白を基調とする光が場を照らしていた。

今回の上演では、たしかにトリスタン役のゾルターン・ニャリとイゾルデ役のリエネ・キンチャの歌唱は見事だった。第一幕で自分を奮い立たせるようにイゾルデが語るトリスタンへの復讐心の裏に潜む愛が吐露された後のキンチャの声の艶やかな高揚には、舞台全体を湧き立たせる力があった。また、ニャリの澄んだ声は、先に触れたようなトリスタンの言葉を切々と響かせていた。これらが充分に際立っていたとはいえ、今回の上演において最も強い印象を残したのは、マルケ王の存在だった。この役を歌ったヴィルヘルム・シュヴィングハマーの声は、抜きんでた威容を示していた。それによって発せられる一語一語にも重みがある。

マルケ王の歌が響かせるのは嘆きである。彼は王としての立場を確立するために、心の底から望んでいたわけではないイゾルデとの結婚を決意する。それによって築かれるべき世界が、トリスタンの背信によって根底から崩壊するのを、彼は目の当たりにしなければならない。この破局を前にした嘆きのなかで、自分の決断が同時に断念だったことも噛みしめられているのが、シュヴィングハマーの声からひしひしと伝わってきた。今回の演出では、マルケは白銀の衣装で登場する。それが象徴する昼の世界において一定の立場を確保するために、人は自身の核心にあるものをも断念しなければならない。そのことへの嘆きが響きわたった。

断念を生きるということは、ブランゲーネについても言えるのかもしれない。今回の上演においてこのイゾルデの侍女は、みずからの意志を持ち続ける人間として描かれていた。この役を歌った藤村実穂子の凛とした声は、その存在を際立たせていたが、そこにはつねに断念の翳が付きまとっているように見えた。ブランゲーネの行動は、秘められた別の愛を諦めることにもとづいているのだろうか。そのことが愛し合う二人に、より深く愛に死ぬことを可能にしたとすれば、またヴァーグナーがこのことをこそ音楽で響かせようとしているとすれば、《トリスタンとイゾルデ》という楽劇が、全曲を挙げて迫ろうとしている愛とは何か。

この問題は、ベルクのオペラ《ルル》におけるゲシュヴィッツの存在と照らし合わせながら掘り下げられるべきだろう。そのことは今は措くとして、今回の《トリスタンとイゾルデ》の上演の舞台において気にかかったことの一つが、最終的に愛の死を媒介することになる薬の扱いである。舞台に置かれた薬箱からイゾルデが医術に通じていることが暗示されるが、そこに収められた薬草などを調合して作られた薬の重みが今ひとつ伝わってこない。その重みは、薬の配合に幾重も意味が折り重なっていることによる。毒薬は死とともに救済をもたらすかもしれないし、媚薬は愛に目覚めさせながら死に至る苦悩へ導くかもしれないのだ。

こうした薬の両義性を考え続けさせるような重みが、薬に関わる小道具とその扱いから伝わってくれば、舞台の求心力が増したにちがいない。投げ捨てられた杯が板の上で軽い音を立てたのには、少し気を削がれた。もう一つ気にかかったのは、マルケ王の一行とともに必ず現われるダンサーである。筋骨を露わにしたその一群の力強い動きは、武人の世界とそこに渦巻く暴力でありうる力を象徴しているのかもしれないが、それをここまで剝き出しにする必然性は感じられない。音楽と主要な人物の行動に、数名の合唱団員が随伴するだけで、かつてトリスタンが身を置いていた世界の男性性は、充分に伝わったのではないだろうか。

そのように思わせるほど、トリスタンの従者クルヴェナールの役を歌ったエギルス・シリンスの歌唱は力強かった。今回の公演に関しては、大野和士が指揮した東京都交響楽団の緻密な演奏も特筆されるべきだろう。舞台上の夜の世界にふさわしい奥深い音響を醸成しながら、そのなかで一つひとつのモティーフを、さらにはコントラバスのピツィカートの一音をも意味深く響かせるアンサンブルが、「愛の死」による幕切れまで保たれたのには感嘆させられた。コーラングレによる哀切な牧人の歌も、重要な場面でのヴィオラの独奏も陰翳豊かだった。第二幕終盤の劇的な展開のなかでオーケストラの響きが冴えわたったのが印象的だった。

とはいえ、今回の《トリスタンとイゾルデ》の上演において、その音楽の全体に、さらに言えば作品としての感触に食い足りないものがあったことも否めない。寄せては返すような波が、目に見えないながらも舞台上を包み、二人の恋人に浸透して、やがて愛し合う者たちを呑み込んでいくことが、この夜の「楽劇」の核心にあるはずだ。けっして明瞭に意識に上らない情動でもあるそのうねりが、上演の全体から強く感じられなかったのは、演奏が優れていただけに惜しまれる。身ぶり、歌唱、そして音響の連続が一つの巨大うねりにまで高まってこそ、「夜の国」から来て、そこへ還る楽劇の美質が伝わったのではないだろうか。

そのために、演技指導を含めた再演の演出も重要な意味を持っていたはずだ。上演が近くなってから代わった二人の主役の身のこなしには、まだ少し硬いところがあった。「愛の二重唱」が正面を向いて歌い続けられると、トリスタンがイゾルデになり、イゾルデがトリスタンになる闇の意味が薄くなってしまう。この作品においてこそ、「オペラ」の習慣は乗り越えられるべきだろう。その闇では自他の区別も、個であることも、波間に消え入る。そこへ限りなく近づき、ついには一線を越えるまでの振幅を示す情動を、舞台にどのように響かせうるのか。そのことは今、何を問いかけうるのだろうか。ヴァーグナーが、一つの時期に書きえた特異な楽劇の新国立劇場での完成度の高い上演に接して、あらためてこうしたことを自問している。

オチ・オサム展を観て

オチ・オサムの《出口ナシ》は、大きな倉庫の分厚い扉にも、あるいは何かを封じ込めた石棺にも見える一対の直方体から成る。その両方の同じ側にガラス窓があり、そこから内部を覗くと、一対のワイングラスが口を合わせて据えられている。グラスの下には血が流れるように赤い絵の具がこぼれている。その様子を初めて目にしたとき、漆黒の二つの立体の重量感も相まって、行き場がないなかで傷だけが広がっていくような無力感と鈍い痛みを覚えたが、一方の物体が他方にもたれるように据え置かれている様子には、重苦しさだけに尽きない要素を感じないわけにはいかなかった。

1962年に東京都美術館で開催された読売アンテパンダン展に出品された《出口ナシ》の再制作版(2015年)を初めて見たのは、2022年の夏のことだった。その頃開催されていた、この美術館の東京都現代美術館に至る歴史を見直す収蔵作品展「コレクションを巻き戻す2nd」に、菊畑茂久馬の《奴隷系図(貨幣による)》(1961年)の再制作版(1983年)とともに出品されていた。近代のなかで鬱積してきた力を「芸術」とその市場にぶちまけるかのような後者は、圧倒的な勢いを感じさせる一方で複雑な印象も残した。他方、展覧会の謝礼の額の低さに失望して「出口ナシ」と命名されたというオチの作品は、ずっと心にぶら下がっていた。

2024年1月24日から福岡市美術館で開催されている(会期は3月24日まで)「オチ・オサム展」の会場で《出口ナシ》を再び見た。二つの立体の置かれ方には、微かな運動が含まれているし、向き合ったグラスが入った窓の造りには、好奇心をはぐらかすようなアイロニーも込められていよう。他方で、オチの作品の黒は一貫して深い。今回の福岡での回顧展を観て、彼の芸術のこうした正反対の志向を感じないではいられなかった。一方でオチは、閉塞感から逃げることなく闇を見通そうとしていた。その一方で彼は、絶えず重力から逃れようとしている。そして、より広い空間に自分を解き放とうとしていたのではないか。

そうしたオチの芸術の両極性が凝縮されている作品の一つが、《華》と題された1989年の作品だろう。これも一対の大きな空き缶の鉢から針金の草を芽吹かせ、その葉が二つに広がる姿をアスファルトで塗り固めている。そこにあるのは、たしかに植物の葉だろう。そして、展示されていた版画作品などから判るのは、葉がオチにとって重要なモティーフの一つであることだ。しかし《華》からは、タールのような半固体を浴びた鳥がもがき出ようとする運動も感じられる。アスファルトに覆われた姿には禍々しいまでの重さがあるとはいえ、羽ばたこうとする動きには、みずからを解き放とうとするオチの志向も込められていよう。

1956年、九州派が胎動しつつある時期に、桜井孝身にアスファルトが「画材」に使えることを示唆したのがオチ・オサムだったという。後に九州派を象徴するようになるアスファルトの黒は、石炭の黒を連想させながら、その一塊の闇を新たな媒体に解き放つことによる近代への挑戦を暗示しているように思われるが、それは他方で、表現と日常生活を媒介する要素でもあった。オチは、芸術と生活の関係を問いながら、日常の生を別次元へ解き放とうと試み続けたのではないか。黒地に白くフジツボが残る様子から地球儀にも見えるブイを用いた1990年代のオブジェにも、こうした彼の芸術への問いが凝縮されていると思われる。

そのオブジェには一対の鳥の羽根が付けられていて、今にも飛び立とうとしているようだ。その動きと呼応するのが、ブイの表面に描かれた色とりどりの球体の運動だろう。今回見たなかで興味深かったことの一つに、1960年代から晩年に至る「球体シリーズ」の展開がある。1966年にサンフランシスコへ渡ったオチは、当地で生の変革へ向けて繰り広げられていたヒッピーの運動に触れ、花をはじめ、そのシンボルを画面に取り入れた油彩画を展開するようになる。とくにその初期には、濃い青から黄に至るグラデーションを持った路のような線がどこまでも続く傍らに、チューリップの花があしらわれているのが印象的である。

これと紅白の球体の運動がカンバスの画面を越えて広がり、木製の額縁をも被い尽くした作品では、黒を基調とする全体の落ち着いた色調と、運動の密やかさが独特の調和を示している。油絵によって「絵画」の平面を超越しようとするオチの志向が、深沈とした静けさを湛えた世界に結晶した作品として感銘深かった。同時期の「球体シリーズ」には、球体とともにカラスウリが描かれた一枚も見られた。明るさを感じさせる褐色の地の上で球体の軌道を描くような幾何学的な文様と、ウリの蔓とが絡み合うなか、球体とウリの実が戯れている。この《カラスウリは不思議I》(1977年)では、抽象性と有機性の温かい調和が、画面にリズムを与えている。

福岡市美術館での回顧展と並行して、ギャラリーEUREKAでもオチ・オサム展が開催されていたが、そこでは「球体シリーズ」の晩年の展開を見ることができた。このシリーズの画面は一貫して多次元的な空間を幾何学的に突き詰める方向性を示しているが、晩年の2010年代に至り、空間の奥行きはさらに深まっているように見える。それでいて球体の運動には、どこかパウル・シェーアバルトの小説『小遊星物語』の世界を思わせる、突き抜けた解放感がある。そして、何よりも印象的だったのは、それぞれの球体が醸し出す画家の身体の運動である。それは、ここへ来てようやくみずからの居場所を見いだしたかのように自由だ。

EUREKAには、このような身体の運動を生かしたドリッピングによる作品の数々も展示されていたが、その画面では、和紙に迷いなく落とされた滴の滲みとその小球体のような連続が、空に遊ぶような運動を醸し出していた。色のグラデーションも美しい。このように一つの到達点を示す作品を味わいながら、それまで彼が折々に作品をつうじて提起した問いも忘れられてはならないとも思った。オチ・オサムは、ジェンダーの問題を意識した作家の一人だった。福岡市美術館には、原子爆弾の投下に象徴される戦争と核開発の男性性を問う作品が掲げられていた。右の乳房だけを膨らませた自画像もあった。

これら1970年代初頭の作品に示されるジェンダーへの問い、さらには既成の性の境界を内側から乗り越える可能性への問いを、オチ・オサムはどこまで持続させたのだろうか。彼にとって一種のオブセッションでもあったかもしれないモティーフのなかには、繰り返し取り上げられながら、球体の遊動ほどには掘り下げられていないもの──例えば、Gallery CONTAINNERに展示されていた版画に見た雨傘と、それによって形づくられる十字架がそうかもしれない──もあるように見える。そこにオチの芸術の飄々とした持ち味があるのも確かだろう。目刺しが画面に泳ぐ版画は、見ていて飽きることがない。

他方で、モティーフの表現の深化と、「芸術」そのものへ、さらにはその近代へ向けられていたはずの問いの深まりが、作品像のなかでなかなか結びつかないもどかしさも拭えなかった。このような感触は、オチ・オサムの作品だけに覚えるものではない。一時「九州派」の名の下に集った芸術家の活動は、その後の展開を含めて未発の問いを含んでいるように思われる。一昨年、福岡市美術館では田部光子展が開催されている。今回のオチ・オサム展がそれに続いたことを受けながら、九州派の活動を歴史的な文脈から見つめ直し、その展開が孕んでいた問いを今ここで立て直すような機会があることを期待したい。

2024年冬の東京滞在記

早いもので一月が終わろうとしています。年初に能登半島で発生し、この地の多くの人々の命を奪い、残された人々の生活を根底から揺さぶった大地震から一か月を迎えることになります。地震と津波、さらに続いて発生した火災が人々に残した傷もさることながら、断水が続くことによる影響の深刻化も心配されます。同時に、イスラエル軍によるガザ地区への侵攻が続いていることも忘れられません。BBCが報じるところによれば、四か月近くにわたる攻撃によってすでにガザの半数もの建物が壊されました。住民の犠牲は四万人に達しようとしているとも聞きます。この破壊と虐殺は、今すぐに止められなければなりません。

晴れない気持ちを抱えながらの慌ただしい滞在となりましたが、1月25日から28日にかけて東京に来ておりました。直接のきっかけになったのは、早稲田大学で開催された当大学のオペラ/音楽劇研究所の主催による国際会議「新しいオペラ/音楽劇および諸問題 New Opera and Music Theatre and Other Issues」でした。大隈小講堂などで開催されたこの国際会議その初日に、演出家で音楽学者のミハル・グロヴァー゠フリートランダーさんが最近制作した舞台作品“Loss”の上映と、それをめぐるワークショップに参加し、この作品にささやかなコメントを寄せました。それをめぐり壇上で少し対談する機会もいただきました。

六本木の檜町公園では梅が咲いていました。

このような貴重な場を設けてくださった荻野静男さんはじめ、オペラ/音楽劇研究所の方々にあらためて感謝申し上げます。グロヴァー゠フリートランダーさんの作品は、身体の運動の展開と、音楽の運動としての展開に通底するものがあることを踏まえながら、両者を緊密により合わせ、一つの拍動からの多面的な表現を「喪失」の悲しみのそれへ収斂させるものと言えるでしょう。その際、戦後日本の舞踏からも影響を受けるかたちで身体の各要素をいったん分解し、それぞれのよじれたり、震えたりする動きに独特のリズムを与えようとするアプローチは、「喪失」というテーマを深く掘り下げるものと受け止めたところです。

“Loss”の最新のヴァージョンには、細川俊夫さんの《恋歌I》(1986年)の最初の曲が採り入れられていて、ソプラノ歌手でもあるパフォーマーが、他のパフォーマーと呼応した動きのなかでそれを歌っていました。万葉集の一首を用いてもはやそこにいない者への抑えがたい思いを、書のひと筋の線として鳴り響かせる「恋歌」が身体表現に反響するのをたどりながら、「喪失」を全身で生きるとはどういうことかと自問していました。“Loss”は、悲哀を魂の奥底から響かせる余地を、あらゆる立場を越えて一人ひとりのなかに切り開くことが、この困難な時代における芸術の課題の一つであることを思い起こさせるものでした。

会議には、グロヴァー゠フリートランダーさんのお連れ合いであるエリ・フリートランダーさんも来ておられました。昨秋ワルシャワでの国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究集会でお会いした、ベンヤミン研究を牽引する学者の一人ですが、ミハルさんがテル・アヴィヴの劇場でラヴェルの《スペインの時》を演出された際、プログラムにエッセイを書かれたことからも分かるように、音楽と音楽劇にも造詣が深く、今回ブレット・ディーンのオペラ《ハムレット》について示唆に富んだ発表を披露してくれました。ハヤ・チェルノヴィンの《無限の今》などに示される、現代のオペラの動向についても学ぶことの多い国際学会でした。

会議の合間を縫うかたちで用事を済ませながら、気になっていた展覧会へ足を運ぶことができたのは幸いでした。26日の午前に、森美術館でその開館二十年を記念して開催されている「私たちのエコロジー──地球という惑星を生きるために」を観ました。「環境危機に現代アートはどう向き合うのか?」という問いの下で構成されたこの展覧会には、さまざまな素材や媒体を駆使し、その身体的な知覚を媒介に、人間が生きものの一つとしてその無限の連鎖のなかにあると同時に、進行の速度が増しつつある自然そのものの破壊の歴史の連続に巻き込まれていることをふり返らせる作品が並んでいました。見ごたえのある展示でした。

殿敷侃《山口−日本海−二位ノ浜、お好み焼き》

展示空間の一つで、殿敷侃の《山口−日本海−二位ノ浜、お好み焼き》(1987年)に再会できました。現在、深刻な海洋汚染をもたらしているプラスティックのゴミを含む廃物を砂浜で焼き固めることから生まれたこの作品を、その制作記録映像とともに見られるのは非常に貴重と思われます。芸術作品そのものの新たな生成の可能性を示しながら、加速度的に前へ進もうとする開発と消費の流れに対し、棄てられたものから問いを突きつけるこの作品の強度には、世界各地から寄せられた作品と並べても際立ったものがあると感じました。水俣病をはじめとする戦後日本の公害の歴史から生まれた作品の意義も考えさせられました。

このほか、環境汚染を暗示しつつ、自然にその原要素を負っている人間の営為のつながりと広がりを風とともに感じさせるセシリア・ヴィクーニャのインスタレーション《キープ・ギロク》や、寝室の電灯に引き寄せられた昆虫や爬虫類が語りかけるように現われながら、生存を賭けたダンスを繰り広げるアピチャッポン・ウィーラセタクンの映像作品《ナイト・コロニー》などが印象的でした。《地球のおへそ》をはじめとする長澤伸穂のアース・ワークの記録は、「野焼き」の発想を生かしつつ、ポグロムが起きた場所などに沈澱した記憶を土地から染み出させ、自然と浸透させつつその場所を再生させる試みとして貴重と思われました。

27日には、最近『声の地層──災禍と痛みを語ること』(生きのびるブックス)を出された瀬尾夏美さんが仲間たちと進めている「カロクリサイクル」プロジェクトの拠点である西大島のStudio04で開催されていた写真と詩の展覧会 『New Habitations: from North to East 11 years after 3.11』 in Tokyoを観ることができました。東日本大震災の発生から13年が経とうとしているわけですが、この展覧会では、写真家のトヤマタクロウさんが2022年に「復興」しつつある被災地を回って撮影した写真の数々に、瀬尾さんの詩が添えられていました。その一つひとつを見ると、ある場所に留まるとはどういうことか自問せざるをえません。

トヤマさんの写真は、地震と津波に遭い、その後ぎくしゃくと宅地の開発や公共施設の整備が進みつつある場所で生活する人々が、海岸などでふと立ち止まったときに目にする風景へさりげなく誘います。瀬尾さんの詩には、こうした人々の魂が抱える記憶が、それに対する割りきれない思いとともに反響していると感じられました。震災に遭った場所に住み続ける人々が、死者とともに生きようとしていることを、あらためて考えさせられました。その一方で、古老たちの問わず語りのなかに戦争の記憶が入り込んでいるのが拾われているのも印象的でした。もしかすると時の層が重なるなかで染み出てきたのかもしれません。

28日の午前には、渋谷の松濤美術館で開催されている写真展「『前衛』写真の精神──なんでもないものの変容」を観ました。シュルレアリスムなどの影響の下で実験として繰り広げられていた「前衛」写真の動向を見据えながら、この前衛芸術運動の紹介者の一人である瀧口修造がいち早くウジェーヌ・アジェの写真に着目しながら、日常の襞にこそ撮られるべきイメージが潜んでいることを指摘して以降の日本の写真の展開を、豊富な資料とともにたどる展示の構成で、こちらも非常に見ごたえがありました。以前から気になっていた大辻清司と牛腸茂雄の作品を、ある程度まとまったかたちで見られたのも幸いでした。

この二人が演出を含んだ実験──大辻には、この展覧会で作品が大きく取り上げられている一人である阿部展也が人体を使いながら構成した「オブジェ」の写真もありました──を重ねた末に、日常生活、とりわけ都市生活の一瞬を寓意的に捉える独特の視角を見いだしていく過程が、とくに興味深く思われました。作品のいくつかには列島の近代が凝縮されたかたちで刻まれているように感じます。写真もさることながら、当時の雑誌などの記事も興味深く、「なんでもないもの」へのアプローチをめぐる議論の展開も背景に作品を見たほうがよいと思われます。個人的には、牛腸の作品からの眼差しに写真ならではの魅力を感じました。

1月26日の夜には、昨秋から二回のシリーズで開催された鵜飼哲さんの講演会「パレスチナを考える──過去・現在・未来」を早稲田で聴くことができました。『シャティーラの四時間』(インスクリプト)をはじめとするジュネの作品を紹介されながら、またデリダらの思想を研究されながらパレスティナに深い思いを寄せてこられた鵜飼さんにこそ可能な視点から、今ガザで起きていることが、1948年のパレスティナ人のナクバの際に目論まれた民族浄化の大規模な、そしてより徹底された反復であることが指摘されたのは、あらためて重要と思われます。そして、このことに対する欧米の矛盾した姿勢も浮き彫りにされていました。

今回の講演で、イスラエルに国際法を守らせるとともに、国民国家とその主権の概念をみずから乗り越えるヨーロッパの責務を語ったデリダの思想の重要性とともに、一つの都市に二つの民をと説いたブーバーの内在的批判としての思想と行動の重要性が強調されていたのも印象的でした。抑圧的支配からの民族の解放へ向けた抵抗が、民衆の犠牲を伴ってきた歴史に問いを差し向けながら、「ノーモア」がなぜパレスティナでは成り立たないのか、という重要かつ喫緊の問いを提起されていたのも忘れられません。迫害と追放、そして虐殺の反復を許してしまっていることは、「人間」の自覚に含まれる差別をも映し出しています。

奇しくもその日は、イスラエルがジェノサイド条約に違反して集団虐殺を続けていると南アフリカが国際司法裁判所に提訴したのに対し、この裁判所の判断が示された日でした。南アフリカが求めた軍事的行動の即時停止を求めるところまで踏み込んだ判断が下されなかったのは残念ですが、殺戮を防止するあらゆる措置を求める言葉が、アパルトヘイトの歴史を背負った国からの提訴を受けて発せられたのは重く受け止める必要があります。イスラエルに国際法を守らせ、虐殺を一刻も早く止めさせる手だてを探り続けるとともに、ジェノサイドの防止を要求する言葉に含まれる問いを掘り下げることが求められていると感じています。

Chronicle 2023

光学式のプラネタリウムがドイツで発明されてから今年で百年になると聞きました。もしかするとヴァルター・ベンヤミンがアフォリズム集一方通行』(1928年刊)の掉尾に置かれることになる「プラネタリウムへ」という文章を書いた動機の一つに、人工の天球を映し出す技術への驚きがあったのかもしれません。そう言えば、幼い頃は季節ごとの番組を楽しみに、足しげくプラネタリウムへ通ったものでした。30歳を過ぎていたベンヤミンも、無数の星々のなかから時期ごとの星座が浮かび上がる様子に引き込まれていたのでしょうか。

ニュールンベルクのニコラウス゠コペルニクス゠プラネタリウム(Nicolaus-Copernicus-Planetarium)における投影風景

「プラネタリウムへ」を読むと、暗室のなか、集団で天界の現象に身をまかせた経験が、自然界との、そして人々の共存の媒体となる集合的な生体を、技術を活用して構築するという着想に結びついたようにも見えます。しかし、ベンヤミンは同じ文章のなかで、技術を独占した支配階級、「帝国主義者」が権力の拡大のためにそれを濫用したために、地上は血の海と化したとも述べています。彼の念頭にあるのは、戦車と機関銃が威力を発揮し、飛行機から爆弾が落とされ、毒ガスが塹壕に撒かれた第一次世界大戦の惨禍でした。

それはベンヤミンにとって、人間の身体が、機械的な技術の圧倒的な破壊力の前に剝き出しになったことを意味していました。権力者たちは、今も技術にものを言わせて無防備な人々の殺戮を続けています。ガザ地区ではパレスティナ人の虐殺が続いています。なぜ医療施設が執拗に攻撃され、住宅地が大規模な空襲に遭わなければならないのでしょう。こうしてパレスティナ人の生を根こそぎにしていくイスラエルの現政権のやり方には、忌まわしい企図を感じないではいられません。ジェノサイドは今すぐ止めるべきです。

4月に訪れた糸島の海岸。ガザの人々が海とともに生きていることが思い出されます。

ガザで続いている虐殺に抗議するとともに、その犠牲者を哀悼し、当地で絶えず死の危険にさらされている人々に思いを寄せて、広島の原爆ドームの前でキャンドルを灯し続けている友人たちがいます。この友人たちに、その輪に加わるさまざまな背景を持つ人々に、心からの敬意を表わしたいと思います。蝋燭に小さな火を灯すとは、死者が歩んだ人生に思いを馳せ、生者の無事を祈り、ともに平和に生きたいという思いに、静かに熱を送ることではないでしょうか。私も心のなかのキャンドルに火を点けたいと思います。

自国民の安全も顧みることなく殺戮が続けられているガザの状況と、それに対する世界の人々の反応が象徴するように、今年は、人々のあいだの分断が各地でさらに深まるなか、暴力がさらに剝き出しになったと思わざるをえません。しかもその暴力は、今や高度なテクノロジーで、遠隔操作で行使されます。それによって一方的に、またあまりにも簡単に人の命が奪われていくことには、心底からの恐怖を覚えずにはいられません。今もロシアの軍隊による侵略にさらされているウクライナの各都市は昨日、大規模な空爆を受けました。

朝倉で見た一面の向日葵。ウクライナを舞台にした映画が思い出されました。

こうして軍事力が行使され続けている背後では、人々と、生きものたちと平和に生きたいという民衆の切なる願いが、「政治」の力で踏みにじられています。そのような暴力は、ここ日本列島でも剝き出しになっています。すぐに止められなければならない辺野古での米軍基地の建設工事の設計変更の認可を、沖縄県とその住民の意思を足蹴にして、国土交通省が代執行したことは、断じて許すことはできません。軍事基地のためにこの「法的」な最終手段を用いることは、戦争へ向けた権力の濫用と言うほかないでしょう。

軍事主義によって生活をなし崩しに壊していく「政治」が、修正主義的と言うほかない歴史の忘却にもとづいていることも、つとに露わになっています。今年は関東大震災に続いた朝鮮人などの虐殺が起きてから百年の節目にあたりますが、前の官房長官は、政府にその記録は見当たらないと言い放ちました。こうして歴史を踏みにじり、ジェノサイドとその背景にある差別に対する態度を曖昧にしながら続いてきた「政治」の虚偽が露呈しつつあります。この人物を含め、政権の中枢にいた政治家は、政治資金をめぐる事情聴取の対象になっています。

来年こそは、闇のなかに微かにでも光が差してくることを願っています。その光は、上から注がれるのではなく、地上の星座のように微かな灯が連なりながら、下から湧き上がってくるのではないでしょうか。そのためにできることは、きわめてわずかでしょうが、機会があるごとに、人が心のなかに灯を点し、他の場所で人の身に起きていることへ注意を向けるきっかけになりうる言葉を届けたいと思います。そのためには研究を続けなければなりません。来たる2024年も、変わらぬご指導のほどよろしくお願いいたします。

ときどき散歩に出かける近所の池の夜明け。鴨が心を和ませます。

今年は自分にとって大きな動きのあった一年でした。まず、2月に福岡市の南部へ転居し、3月から家族と住み始めました。二箇所の引っ越しはやはり大変でしたし、それによる生活の変化に慣れるのに時間を要しています。9月には、パンデミックが始まってから初めて海外へ出かけ、ワルシャワで開催された国際学会で研究発表を行なうことができました。そのいくつかの催しでの議論では、当時一週間後に迫っていた総選挙も意識されていましたが、それによってポーランドでは民主的な方向への政権交代が起きました。

今年の活動をふり返ると、例年にも増して研究発表や講演、対談などでお話しする機会が多かったように思います。そのような場での人との出会いは、研究にとって大きな刺激になります。温又柔さん、福田惠さん、藤原辰史さん、小林エリカさんと公の場でお話しできたことには心から感謝しています。そこから得たことを糧に、来年は翻訳を含め、書くことに力を入れなければと思います。今年は演奏会評、書評、展覧会評などをお届けしましたが、こうした批評も力の及ぶ限り継続したいと思います。

国際学会で訪れたワルシャワ旧市街の夕景。月が美しい夜でした。

今年は春に大江健三郎が亡くなりました。四半世紀前に東京オペラシティのタケミツメモリアルで、エドワード・W・サイードの音楽論を語った彼の声を思い出しながら、大江の『ヒロシマ・ノート』を読み直す一方向を示す拙論「立ちすくむ人の人間への問い」を『ユリイカ』に書いたことで、また一つ何かを背負った気がします。こうして書き継いでいく道を開き、それを歩むおぼつかない足取りを静かに支えてくれた恩人が、今年の夏に旅立たれました。平凡社時代に『ベンヤミンの言語哲学』を世に送ってくれた関正則さんです。

広島出身の関さんとは、東京だけでなく、広島でもたびたびお会いして話をさせていただきました。在外研究でベルリンに滞在していたときにも遠くまで訪ねてくださいました。最後に広島でお会いしたとき、明石書店から二巻で刊行された、『金石評論集』の編集に力を注いでいると語っておられました。その第二巻が今夏、逝去される直前に世に送られたことには深い感慨を覚えずにはいられません。こうして丹念に本を作ることによって、関さんは朝鮮半島の人々とのあいだに魂の交流の回路を開こうと努めてこられました。

原爆文学研究会のために訪れた広島大学旧1号館(被爆建物)。紅葉がようやく見られました。

関さんが編集を手がけられた、徐京植、高橋哲哉、韓洪九の三名の鼎談による『フクシマ以後の思想を求めて──日韓の原発・基地・歴史を歩く』(平凡社、2014年)のことを熱く語っていたのも思い出されます。その三名の一人、徐京植さんも先日急逝されました。『汝の目を信じよ!──統一ドイツ美術紀行』(みすず書房、2010年)を読んで、彼の紹介をきっかけにフェリックス・ヌスバウムらへの興味を深めたことを思い出しました。徐さんが残した記憶の抹殺が続く現在への問いは、絶えず喚起されなければなりません。

関さんに書いていく道へ導いていただいたことに少しでも応えるべく、彼と出せたらと語り合っていた本へ向けた研究を積み重ねたいと思っています。いつ出せるかは分かりませんが、先の鼎談書の副題にあった「歴史を歩く」を、ベンヤミンが示した「歩行から思考」の実践として繰り広げる一冊にできればと考えているところです。そのためにも来年は、各地を歩き回る機会を折々に持てればと願っています。みなさまはどのような願いを抱いておられるのでしょう。どうか安らかに佳い新年をお迎えください。

■Chronicle 2023

  • 1月28日:図書新聞第3576号に小山亘編著『翻訳とはなにか──記号論と翻訳論の地平、あるいは、世界を多様化する変換過程について』(三元社、2022年)の書評が掲載されました。本書を言語とは体系ではなく、出来事であるという視点から、この出来事の核心に翻訳があることを広大な視野の下で明らかにし、近代の「言語」の神話を乗り越える道筋を探る試みとして紹介しました。
  • 3月1日:日本社会文学会の『社会文学第57号に、川口隆行さんの『広島(ヒロシマ) 抵抗の詩学──原爆文学と戦後文化運動』(琥珀書房、2022年)の書評が掲載されました。広島からの原爆文学を代表する一人である峠三吉の詩作が、人間中心主義を乗り越える方向性を示す一方で、「核の平和利用」の未来を志向するという両義性を含んでいる点を緻密に浮き彫りにした本書の議論を紹介するとともに、その詩学が『夕凪の街と人と』の大田洋子の抵抗と深いところで共鳴していることを指摘しました。
  • 3月4/5日:西南学院大学学術研究所にて第17回形象論研究会を開催しました。4日には「ベンヤミンからのイメージ論」をテーマとするシンポジウムを開催し、気鋭の研究者、田邉恵子さん(新潟大学)、村上真樹さん(大阪城南女子短期大学)にベンヤミンの「イメージ Bild」概念に関する貴重な発表をしていただきました。仮象批判として現われるその偶像禁止にも貫かれたそのイメージの美学の射程を測る場となりました。「想像の解放による救済へ──ベンヤミンのイメージの美学の射程」と題する研究発表を行ないました。
  • 3月20日:西南学院大学国際文化学部の紀要『国際文化論集』第37巻第2号に、「嘆きからのうた──声と沈黙の閾と題する論考が掲載されました。受け止めきれない悲しみや遣り場のない憤りを抱えた者が発する、絶えず声と沈黙の閾において発せられる嘆きからうたがどのようにありうるかを問うものです。第一次世界大戦中のベンヤミンとショーレムによる嘆きについての理論的な著述を検討し、この戦争の初期に戦地で書かれたトラークルの最後の詩の意義も検討しました。それを用いた細川俊夫さんの音楽作品《嘆き》にも触れました。
  • 3月25日:立命館大学人文科学研究所のシンポジウム「〈翻訳者の使命〉はいかに受け継がれたのか──ベンヤミン「翻訳者の使命」と、20世紀フランスを中心とするその受容」にパネリストの一人として登壇し、「言語の死後の生へ──ベンヤミンの『翻訳者の課題』とその継承」と題する研究発表を行ないました。立命館大学間文化現象学研究センターと「20世紀フランスにおけるハイデガーとベンヤミンの受容史の解明」をテーマとする共同研究の主催によるシンポジウムには、研究代表の亀井大輔さんをはじめ、長澤麻子さん、宮﨑裕助さん、西山雄二さんと、現代のフランスとドイツの思想の研究を牽引する研究者が顔を揃え、ベンヤミンの翻訳論とその受容史をめぐる刺激的な議論の場となりました。
  • 3月27/28日:「リゲティの秘密」をテーマとする東京都交響楽の演奏会のプログラムに、今年生誕百年を迎えたジェルジ・リゲティの《マカーブルの秘密》のテクストの対訳を寄稿しました。以前に半田美和子さんのアルバム『Khôra—Niemandslied』(EXTON)収録のピアノ伴奏版のために作った翻訳を、管弦楽版に合わせて見直し、注釈を加えました。その演奏は、この作品の基になったオペラ《グラン・マカーブル》の世界の凝縮された姿を、ヴァイオリンと声のパフォーマー、パトリシア・コパチンスカヤならではの仕方で伝えるものでした。
  • 4月7日〜7月31日:西南学院大学で「美学・芸術学」、「哲学」などの講義や各種演習、大学院の授業を担当しました。
  • 4月15日:ウェブ批評誌Mercure des Arts第91号に、ヴィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に、2023年1月26日から4月9日にかけて東京都美術館で開催された展覧会「エゴン・シーレ──ウィーンが生んだ若き天才」の短評が掲載されました。自画像ないし自画像的な作品を焦点にシーレの作品の美を論じつつ、それを同時代の絵画の布置のなかに位置づけた展示の方向性を紹介する一方で、シーレと今回作品が取り上げられた画家との関係が掘り下げられていないという問題点も指摘するものです。
  • 4月28日:形象論研究会の雑誌『形象』第5号に、クリストフ・メンケの論考「然りと言う──ニーチェの美的自由の概念」の翻訳が掲載されました。ニーチェの『悲劇の誕生』において提起される課題「われわれの音楽のために文化を見いだすこと」に、生そのものへの「悲劇的洞察」を踏まえつつ、それに応えようとする論考は、2022年に日本語訳が刊行されたメンケの『力──美的人間学の根本概念』(杉山卓史他訳、人文書院)の「倫理学」を、真に自由に、そして美的に何かを始める可能性の理論として読む視点を示すものです。
  • 5月15日:ウェブ批評誌Mercure des Arts第92号に、2023年4月13日にアクロス福岡シンフォニーホールで開催された九州交響楽団第411回定期演奏会の批評が掲載されました。いずれも同時代の戦争を背景に書かれたオネゲルとベートーヴェンの交響曲第3番の演奏が、二人の作曲家の人間への洞察を、作品の抗争的な側面とともに力強く伝えていたことを焦点に据え、死者への哀悼にもとづく切々とした祈りが、オネゲルの交響曲の緩徐楽章の表題にあるように、「深き淵から」響いていた点にも触れました。
  • 5月27日:中國新聞文化面に、広島交響楽団の創立60周年を記念して去る5月18日に開催された第431回定期演奏会の批評を寄稿しました。世界的なヴァイオリニスト五嶋みどりの音楽への愛と、下野竜也音楽総監督と広響が7年間の共同作業で積み上げてきたものが凝縮された演奏の意義を論じました。
  • 6月22日:西南学院大学のチャペルアワーで「川から考える平和」と題し、広島の川の逆流と原爆の記憶の回帰を重ねながら、原民喜の作品を読む意味などをお話ししました。
  • 6月4日:広島平和記念資料館メモリアルホールで開催された第17回藝術学関連学会連合公開シンポジウム「藝術と平和/戦争」にて、「傷からの芸術 ──ヒロシマからの芸術が問いかけるもの」と題する研究発表を行ないました。原民喜の作品集の編者解説として書かれた大江健三郎の言葉にある核時代における人間の「赤裸」の姿を、1933年にヴァルター・ベンヤミンが「経験と貧困」というエッセイに浮かび上がらせた、「破壊的な奔流と爆発の力の場の真んなかにいる人間の身体」の剝き出しの姿と照らし合わせ、ヒロシマ以後の「傷からの芸術」の展開の意義に迫ろうと試みました。
  • 6月15日:ウェブ批評誌Mercure des Arts第93号に、2023年5月20日に銕仙会能楽研修所で「追善・一柳慧」と題して開催された青山実験工房第7回公演の批評が掲載されました。芸術家が領域横断的に協働する実験工房の精神が、能舞台において一柳慧の芸術に捧げられた公演の意義を論じる。とくに魂の邂逅の出来事を、時間が重層化し、波立つ空間に繰り広げたバーバラ・モンク゠フェルドマンの《松の風吹くとき》と、髙橋悠治の《夢跡一紙》が初演に注目しました。本公演は、Mercure des Artsの第9回年間企画賞の第3位に選ばれました。
  • 6月30日:活字文化推進会議(読売新聞社)と西南学院大学の主催により開催された作家の温又柔さんを招いての読書教養講座のコーディネーターを務めました。「はざまから紡ぐ物語」をテーマとする本講座では、コーディネーターとの対談のかたちで、また学生の作品紹介と質問に答えるかたちで、温さんに『祝宴』、『魯肉飯のさえずり』などの作品のテーマや、李良枝の文学を縦横に語っていただきました。
  • 7月15日:『ユリイカ──詩と批評 』(青土社)2023年7月臨時増刊号「総特集(追悼特集)゠大江健三郎 1935–2023」に、「立ちすくむ人の人間への問い──大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を読み続けるために」と題する論考が掲載されました。1965年に岩波新書の一冊として刊行された大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を貫く核の時代における人間への問いを、その広島における起点から捉え直し、このルポルタージュを読み継ぐ可能性を探る論考です。
  • 7月15日:ウェブ批評誌Mercure des Arts第94号に、堀朋平さんの新著『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年2月刊)の書評が掲載されました。現代にも通じる激動を人々が経験した19世紀初頭の精神史的な布置のなかに、シューベルトという作曲家を愛すべき友として浮かび上がらせるとともに、その音楽の魅力を繊細に、かつ踏み込んだ視点から解き明かす一書として紹介しました。
  • 7月24日:広島大学で「戦争と平和に関する学際的考察」の講義を、広島市立大学で「平和と人権A」の講義を担当しました。
  • 7月29日:図書新聞第3601号所載の2023年上半期読書アンケートに答えて、鵜飼哲『いくつもの砂漠、いくつもの夜──災厄の時代の喪と批評』(みすず書房)、姜信子『語りと祈り』(同じくみすず書房)、中谷いずみ『時間に抗う物語──文学・記憶・フェミニズム』(青弓社)の三冊を印象深かった書籍として挙げました。
  • 8月6日:Setouchi L-Art Projectとして福山のiti SETOUCHIで開催された福田惠さんの個展「一日は、朝陽と共に始まり、夕陽と共に終わる」のクロージングに際し、福田さんの祖父さまの1945年8月6日の記憶に光を当てた映像作品が上映された後、アーティストおよびこのプロジェクトのディレクター菅亮平氏とともにトークに出演し、展覧会と映像作品の特徴と意義について語りました。
  • 8月15日:ウェブ批評誌Mercure des Arts第95号の「プロムナード」に、「真夏の花の美学」と題する小文が掲載されました。カンナ、夾竹桃といった真夏の花の記憶に触れつつ、今夏福山で開催された福田惠さんの個展を論評し、ベンヤミンの美学にもとづいて芸術と技術の関係を論じる。現代における芸術批評の課題にも言及するものです。
  • 8月15日:Mercure des Artsの第95号に7月27日にアクロス福岡シンフォニーホールで開催された九州交響楽団第414回定期演奏会の批評が掲載されました。リヒャルト・シュトラウスの楽劇《サロメ》の音楽の魅惑と躍動が説得的に伝わってきた今回の上演の意義を論じるものです。「七つのヴェールの踊り」から先のオーケストラの響きは、不協和音のそれを含め、深みがあって作品にふさわしかった一方、演奏会形式のオペラの上演としては課題が残ったと思います。
  • 9月7日:9月3日から10日にかけて開催された武生国際音楽祭2023にゲストとして参加し、その国際作曲ワークショップにおいて、「四重奏の美学へ──愛の概念を手がかりに」と題するレクチャーを行ないました。プラトン以来哲学において論じられてきた、またヘルダーリンがディオティマに宛てた詩の数々に込めた愛の概念を出発点に、それらの詩が埋め込まれたノーノの《いくつもの断章──静寂、ディオティマへ》と、細川さんの《パッサージュ》を論じました。
  • 9月15日:ウェブ批評誌Mercure des Artsの第96号に、モーツァルトの『フィガロの結婚』が取り上げられた今年のひろしまオペラルネッサンスの公演の初日(8月26日)の批評が掲載されました。争いが続き、差別が積み重なって引き裂かれた現代の世界へ向けて上演されるべき作品としてこの名作を舞台に載せた公演の意義と課題を、足かけ二十年以上にわたりその様子に触れてきたひろしまオペラルネッサンスの歩みを踏まえつつお伝えしようと試みました。
  • 9月22日:Hiroshima Happy New Earの第31回の演奏会として開催された藤村実穂子さんのリサイタルの冒頭で、シューベルト、マーラー、ツェムリンスキーの歌曲とともに細川俊夫さんの子守歌などが取り上げられたプログラムへの導入のお話をしました。
  • 9月22日〜2024年1月29日:西南学院大学で「美学・芸術学」、「哲学」などの講義と各種演習、大学院の授業を担当しています。
  • 9月28日:ポーランドのワルシャワで開催された「正義の政治──テクスト、イメージ、実践」をテーマとする国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究集会に参加し、「言語の正義のための行為としての翻訳──ヴァルター・ベンヤミンの翻訳理論の実践的意義に関する一考察」と題する研究発表を行ないました。百年前の1923年にボードレールの「パリ風景」独仏対訳版の序文として公刊されたベンヤミンの「翻訳者の課題」における「字句通りの翻訳」の理論の意義を、彼の正義論やスピヴァクの翻訳論などと照らし合わせながら、言語の解放とそこに込められた記憶の救済へ向けた文学の可能性へ向けて掘り下げようと試みました。
  • 10月15日:慶応義塾大学三田キャンパスで開催された第74回美学会全国大会の若手研究者フォーラムの美学をテーマとするパネルの一つで司会を務めました。
  • 10月29日:認定NPO法人水俣フォーラムの主催により福岡アジア美術館を会場に開催された水俣・福岡展2023の協賛企画として、西南学院大学ことばの力養成講座の主催で開催された藤原辰史さんとの対談「水俣を想う歴史家と哲学者の対話──生類の歴史へ」に登壇しました。西南コミュニティーセンターにて開催された対談には多くの参加者が集まり、その模様は毎日新聞(12月1日付)でも報じられました。対談では、石牟礼道子が作品に刻んだ水俣の「生類の邑」の喪失を犠牲の世界史、そして水俣病に象徴される近代日本の公害の歴史が続く現在を照らす出来事として想起することを出発点に、生命と技術の関係を根底から問いつつ、生類の一つとして生き延びる道を探る議論が繰り広げられました。
  • 11月15日:ウェブ批評誌Mercure des Arts第98号に、「ワルシャワへの旅より」と題する小文が掲載されました。当地で開催された国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究集会の日程の後にポーランド・ユダヤ人博物館(POLIN)を訪れた際の印象や、帰路に就く直前にワルシャワ国立歌劇場で「コーラス・オペラ」の公演を観たときの印象を、昨今の出来事をめぐって考えることと絡めて記しました。武生国際音楽祭2023の際に出会った作曲家アンジェイ・カラウォフさんとの再会と彼の作品にも少し触れています。
  • 12月9日:広島大学東千田キャンパスで開催された第70回原爆文学研究会のワークショップ1「記録からひらく表現」において、個人史と世界史の接点を掘り下げつつ、核の普遍史と対峙し、不可視化されたものの想起の媒体を創造する小林エリカさんと福田惠さんの芸術について、それぞれのプレゼンテーションに応答するかたちでコメントしました。
  • 12月15日:Mercure des Artsの第99号に、いずみホールの「シューベルト 約束の地へ」シリーズのVol. 3「答えなき“謎”」として2023年11月5日に開催されたハーゲン・クァルテットの演奏会の批評が掲載されました。後期の大作の一つ弦楽四重奏曲第15番の演奏が、自然と共振しながら死との近さを示すシューベルトの歌を奥深い風景のなかに響かせていた点などを論評しています。
  • 12月19日:西南学院大学の広報誌『SEINAN Sprit!』第227号の「My Answer」の欄に、「カワイイ×美学」と題するインタヴューが掲載されました。若い人々のコミュニケーションの符牒として世界的に用いられつつある「カワイイ/kawaii」という語の危うさを指摘しながら、愛おしい思いを深めることの意義を語っています。
  • 12月23日:図書新聞の2023年下半期読書アンケートに答えて今年7月以降に刊行されたうち、『金石範評論集II思想・歴史論』(明石書店)、目取真俊『魂魄の道』(影書房)、佐藤泉『死政治の精神史──「聞き書き」と抵抗の文学』』(青土社)の三冊を印象深かった書籍として挙げました。
  • 12月25日:立命館大学人文科学研究所紀要第136巻に、「言語の死後の生へ──ベンヤミンの『翻訳者の課題』とその継承」と題する論文が掲載されました。語の危機のなかで言葉の可能性を探るベンヤミンの文学の構想のなかに「翻訳者の課題」を位置づけるとともに、翻訳が「字句どおりであること」を要請するその議論の同時代における位置をローゼンツヴァイク、魯迅の翻訳を視野に入れつつ検討しました。そのうえで、言葉遣いに寄り添う翻訳に「愛」を見る彼の議論を、スピヴァクの翻訳論における「愛」と照らし合わせながら、また翻訳と詩作を往還したツェランの文学に、ベンヤミンへの一種の応答を見ながら、「翻訳者の課題」の翻訳への問いを今受け継ぐ可能性を探る内容です。3月25日に開催された同研究所主催のシンポジウム「〈翻訳者の使命〉はいかに受け継がれたのか」での発表の内容に加筆しました。

ガザを想う──映画『ガザ 素顔の日常』を見て

福岡アジア美術館を会場に開催されていた水俣・福岡展2023(認定NPO法人水俣フォーラム主催)の協賛企画として10月29日に開催された「水俣を想う歴史家と哲学者の対話」の終わりに、歴史家の藤原辰史さんが、パレスティナのガザ地区の海水が下水などによって汚染されていることに触れてくれた。2006年から続くイスラエルによる封鎖と、その後も度重なった武力攻撃によってガザの水道が機能しなくなり、下水が処理されないまま海に流されているという。そのために健康被害が心配されるほどに海水が汚れていく一方、飲み水を含めた生活用水の供給もできない状態が続いていることは言うまでもない。

それでもなお、人々は海に出る。海岸で遊ぶために、魚を獲るために、あるいはただ息をつくために。海が広がっていくのを眺め、波とともに吹き寄せてくる風を浴びると、生きている感触が得られるのだ。先の対談は、石牟礼道子の言葉に因んで「生類の歴史へ」というテーマをめぐって行なわれたが、地中海に面したガザ地区の人々は、海でこそ、自分が生類の一つであることを実感するにちがいない。そうした人々の生きざまを浮かび上がらせる映画が福岡で上映されていることを知り、仕事の合間を縫って見に行った。ガリー・キーン、アンドリュー・マコーネル監督のドキュメンタリー映画『ガザ 素顔の日常』である。

2019年に発表されたこの作品は、ガザの人々と海の深い結びつきを伝えている。冒頭に描かれる、子どもたちが巧みに泳ぐ姿から惹きつけられた。海で遊んでいるのは40人もの家族がいる漁師の孫たちだ。彼らは父や兄たちから船の操り方や網の扱い方などを学ぶ。こうして海で生きる技を体得する。アフマド少年は、ガザのみなに尊敬されるような漁師になって船を持ちたいと語っていた。しかし、海も封鎖されている。水質汚染の影響もあるのだろう。船を動かせる海岸から5キロメートル圏内では、ほとんど何も獲れないという。わずかに網にかかったイワシのような小魚が、子どもたちの貴重な蛋白源になっている。

もし漁をしているうちに見えない封鎖ラインの外に船が出てしまったら、漁船はすぐにイスラエルの軍艦によって拿捕される。漁師が拘束されることもあるという。ある老人の息子は犯罪の嫌疑をかけられ、5年ものあいだ拘留されていた。映画は、彼がようやく家族の許に帰ってくる日を追っていたが、その映像は、彼を英雄化するハマスの構成員が空砲を撃ちながら行進する様子をアイロニカルに描いているように見えた。一人の男は、ハマスが支配するようになってから、ガザは世界から見放されたと独白していた。占領、そして封鎖の暴力は、ガザの人々の生を締めつけ、その未来を鎖していく。

電気が頻繁に止まり、手仕事を細々と続けるのすらままならない。タクシーの運転手は、家族があり、仕事を続けられているのは幸せだと語るが、その彼も債務不履行のために収監されたことがあるという。若者が職を得られる可能性はきわめて低い。このような絶望的な状況のなか、生存はそれ自体抵抗であらざるをえない。そして、若者たちは抵抗を石に込めて壁の向こうへ投げつける。イスラエル軍の兵士は、それに対して容赦なく銃口を向ける。投石する若者たちは、重い傷を負う。命を落とすこともある。映画では、そのような若者の救護を務めとする救急隊員の必死の働きが印象深く描かれていた。

この救命士は無事でいるだろうか。イスラエル軍は今、救急車両の列に、それが負傷者や病人を運び込む病院などに、空からも地上からも苛烈な攻撃を行なっている。一連の攻撃によるガザ地区の住民の死者は、すでに一万人を超えたという。心身に傷を負った人の数はもはや計り知れない。病院とは言うまでもなく、病を患う者、負傷した者が治療と看護を受ける場所である。あるいは新たな命を宿した女性が出産し、その直後のケアを受ける場所であり、新たに生まれ出た命が育っていくために必要な医療を受ける場所でもある。家を失い、体調の不安を感じながら病院へ逃げ込んだ人も少なくないだろう。

そこにいるのは、他の場所へ移動することが困難な人々である。現在の状況で弱い立場にある人々が激しい砲火にさらされ、救護されないままに放置されている現状は容認しがたい。なぜ弱者に武器を向けるのか。そこには、ガザ侵攻を押し進めるイスラエルの現政権の基本的な姿勢が顔をのぞかせているように見える。そして、数多くの新生児を命の危険にさらしているところには、今やその攻撃性を剝き出しにしている人種差別的なイデオロギーの本質も表われていよう。政権にはパレスティナ人のことを「動物」だと言い放つ者もいるという。そのような他者観の下でガザの住民の虐殺が続いている。

ストップジェノサイド・ヒロシマによるキャンドルアクションのポスター

ここにあるのは、1948年からのナクバの連続であり、その要因として歴史家イラン・パペが挙げる民族浄化の企図のあまりも暴力的な顕在化である。その点でイスラエルの軍隊がガザ地区で進めているのは、ジェノサイドと言わざるをえない。哲学者ジュディス・バトラーも、「われわれ(ユダヤ人)を口実にするな Not in our name」と訴えながらそう指摘していた。このことを武力攻撃の当初から執拗に医療が標的にされてきた経緯と考え合わせると、恐怖に震える。映画をつうじて見た人と人の強い絆のなかで、また海の自然との深い結びつきのなかで真剣に生きる一人ひとりの命がここまで蔑ろにされるのか。

もう一つ容認しがたいと思われるのは、イスラエルの現政権の閣僚の一人が、核兵器の使用も選択肢の一つになるなどと軽々しく述べ立てたことである。原子爆弾の惨禍に遭った広島で長く暮らした者として、そのことには心の底からの怒りを覚える。その一方でこうした発言に、現在のガザを一掃してしまいたいという欲望も感じないではいられない。そのような欲望を背景に住民の生命を上から踏みにじってはばからない者は、ハマースによる無差別攻撃によって奪われた一人ひとりの命も、そのなかで行なわれた大規模な誘拐によって恐怖の下に置かれた一人ひとりの命も顧みていない。

こうした犠牲が、イスラエル軍の地上侵攻を容認させるようなかたちで報じられる一方、ガザが封鎖されてきたことや、ヨルダン川西岸地区とともにイスラエルの占領下にあることが、そこにある人間性の剝奪とともに取り上げられる場面はあまりにも少ない。ガザのパレスティナ人の犠牲も膨大な数としてしか語られなくなりつつある。先に触れたDemocracy Now!のインタヴューでバトラーが述べていたように、親に抱き上げられる前に息を引き取った赤ん坊を含め、ガザの死者一人ひとりが悼まれる回路が開かれる必要があるのではないだろうか。生あるものたちのあいだに、あらゆる境界を越えて。

誰ひとり殺されてはならない。そう考えるところから哀悼が分有されてこそ、国家的組織による殺戮と、その犠牲を容認する「戦争」の論理に内側から抗することができるだろう。虐殺は止められなければならない。たとえそれに対して直接に働きかけられなくとも、この出来事に潜む問題──それは、百年前に関東大震災のさなか、朝鮮人などの虐殺を引き起こした問題と同じ根を持っている──へ眼差しを向けるとともに、一つひとつの顔から注がれる眼差しを感じ続ける身ぶりを止めてはならない。このようなささやかな抵抗の重要性を気づかせてくれたのが、水俣・福岡展の会場に掲げられた犠牲者一人ひとりの遺影だった。

ワルシャワでの国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究集会に参加して

今年は、ワルシャワのゲットーでユダヤ人が蜂起から80年の節目にあたる。1943年4月19日、この強制隔離居住地区に残っていたユダヤ人は、ナチの言う「最終的解決」へ向けて一掃されるのに抗して武装抵抗を開始した。一か月近くに及んだ戦闘の後、ゲットーは解体され、ユダヤ人の街は灰燼に帰することになる。捕らえられた人々は、収容所などで虐殺された。この80年前の出来事を記念し、その犠牲者を追悼する催しは、ワルシャワで、そして各地で続いているが、それをつうじて想起されるべきは、出来事がその核心においてけっして過ぎ去っていないことである。特定の人々の存在を否定しようとする言動は今も止まない。それに対する抵抗は続けられなければならない。

9月27日から30日にかけてワルシャワの二つの学術機関(ポーランド科学アカデミーSWPS大学)を会場に、国際ヴァルター・ベンヤミン協会の研究集会を開催することもまた、今も続いている差別と迫害の歴史に抗う意思を示す行為の一つに数えられよう。そのことは何よりも、集会の催しがワルシャワのゲットーの記憶を辿るウォークから始まったことが象徴していると思われる。かつてゲットーを他の街区から隔てていた壁の跡が街路に刻まれているのを前に立ち止まるところから始まった参加者の歩行は、死の収容所への「移送」の中心、「集荷場 Umschlagsplatz」の跡も経由した。現在のワルシャワの中心部がゲットーの瓦礫の上に築かれていることに思いを馳せながら歩みを進めた。

ここに市街とゲットーを隔てる壁があったことを伝えている。

とりわけナチによって集団で虐殺された人々の墓標には心を動かされた。その周りを歩くと広島の原爆供養塔も思い起こされる。そこに集められた骨と灰の堆積には、ベンヤミンが語った「抑圧された者たち」の記憶が沈着している。「歴史」とされた神話的な物語によって消し去られかねないその記憶の一つひとつに正当な場所を開くところに、彼は新たな歴史を見ようとしていた。さらにその歴史は、意志の目的であることを超越した正義に通じるとも考えていた。そのような正義の構想は、1916年の秋に書かれ、ゲルショム・ショーレムの筆写によって遺された「正義という範疇についての論考のための覚え書き」に遡る。未だ日本語が公刊されていないこのテクストは、今回の研究集会の出発点の一つになっていた。

国際ヴァルター・ベンヤミン協会ワルシャワで研究集会の全体テーマは、「正義の政治──テクスト、イメージ、実践」だった。9月27日の午後、それに寄せる二つの基調講演がポーランドの科学アカデミーのホールで行なわれた。「正義と法についてのベンヤミンの考察──イェルサレムとアテネのあいだで」と題するジークリット・ヴァイゲルの講演は、「暴力批判論」や「フランツ・カフカ」などの著作をきわめて精緻に再読することをつうじて、ベンヤミンの正義論の文脈とその意義を浮き彫りにしようとするものと言える。その議論を辿りながら、彼に亡命を強いた1933年のナチス政権掌握後の状況が、カフカの作品、とりわけ長篇小説の断片へ向かわせたことを思わざるをえなかった。

研究集会のオープニングの会場となったポーランド科学アカデミーの窓から市街を望む。

ベンヤミンが論じる『訴訟』において法は、腐敗した制度として人に横死の運命を負わせる。しかも、その暴力に抗う試みは絶えず撥ね返される。人は「掟の前」から先に進むことはできない。それでもなお、ここから始められなければならない。今も嵐のようにすべてを拉し去ろうとしている忘却に抗して。ヴァイゲルが強調していたのは、ベンヤミンがカフカ論において、「存在を文字へ反転させる勉学」に、法の「神話的暴力」の批判の道筋を探っていたことの意義である。カフカの『失踪者』の学生は、ひたすら読み続け、書き続ける。この「勉学」の身ぶりは、写真に映し出された『パサージュ論』に取り組むベンヤミンの姿からも、その著述の解読を継続する営為からも見て取られるのではないだろうか。

さらには、神話としての「歴史」に抗してそのドキュメント──それは「歴史の概念について」のテーゼの一つに記された、野蛮の記録としての「文化財」でもある──を読み解くことも、「勉学」に勤しむことに数え入れられるかもしれない。カフカ論によれば、「勉学は正義への門である」。その門口は、つねに消し去られつつある過去へ通じていよう。「勉学」は、スーザン・バック゠モースが行なったもう一つの基調講演のテーマに掲げられた「過去に対して正しくあること」を、みずから文字と化しながら追究する営為と考えられる。バック゠モースは、その道筋をベンヤミンから、そして彼を越えて構想された翻訳のうちに探る。彼女は、その実践によって新たな「歴史としての哲学」を展開しようとしていた。

バック゠モースの講演は、日本語訳のある『西暦一年──「理性」と「信仰」の関係を問い直す』(青土社、2021年)の内容にもとに、西暦一年前後に異なった場所で書かれたテクストの「垂直的」な翻訳をつうじて、神学的な言葉の哲学的に豊かな内実を解きほぐすと同時に、硬直した概念的思考の限界も浮かび上がらせるものだった。それは、近代の概念によって制度化されてきた位階秩序の不正義を問いただしつつ、ヨハネやヨセフスの時代の思想の脈動を甦らせる試みとも言えよう。こうして歴史と哲学の双方を脱構築するとともに、過去をその可能性において救い出す方法として翻訳が取り上げられることは、翻訳の概念を、ベンヤミンの思考を貫くものとして捉える視点の重要性を証し立てている。

ヴィスワ川からワルシャワ旧市街を臨む。

ヴァイゲルとバック゠モースの基調講演が行なわれた翌日の28日、プラガ地区にあるSWPS大学に会場を移して続いた研究集会の「言語の正義および言語的実践」をテーマとするパネルで、「言語の正義のための行為としての翻訳──ヴァルター・ベンヤミンの翻訳理論の実践的意義に関する一考察」と題する研究発表を行なった。その議論は、翻訳から言語を、その不断の自己組成の相において捉えるベンヤミンの言語哲学の基本的な視点が「言語一般および人間の言語について」のなかで示されたのとほぼ時を同じくして、正義を主体の意志を超越した、その意味では神的とされる「世界の状態」として捉える視点が「正義という範疇」についての覚え書きに示されていることを出発点としている。

このメシア的な正義に言語を開く行為として、ベンヤミンは翻訳を問い続けていたのではないか。すでに1917年には、ショーレム宛の書簡において詩的な作品の翻訳に、とくにヘルダーリンによるピンダロスの頌歌の翻訳に、ベンヤミンは、言語と言語の響き合う関係を表出しながら、その空間を切り開く力を認めていた。彼は後に「翻訳者の課題」において、こうした翻訳という行為の力を、「字句通り」翻訳することを焦点に掘り下げることになる。その力は、言語の近代的な制度に対しては破壊的に作用する。原作の統語にまで寄り添う翻訳は、「言語」と呼ばれているものに乗った自動的な発話の流れを遮断するのだ。そうして「言語」の支配力を解体する作用は、法を破壊するアナーキーなものですらある。

このような「破壊的性格」を発揮するとき、翻訳は他の言語の異質な言葉遣いを慈しむ。「翻訳者の課題」のなかで述べられているとおり、翻訳者は「愛を込めて」他者の言葉のテクスチュアに沈潜するのである。今回の研究発表では、このことをガヤトリ・C・スピヴァクの翻訳の理論とも照らし合わせた。彼女の「翻訳の政治学」においては、翻訳は「最も親密な読む行為」と定義され、その行為は「字句通り」であることを求めると述べられている。異質な言葉を一つひとつ愛おしむ翻訳は、言語と言語の関係を、ひいては言語そのものを脱植民地化しながら、詩的な言葉を共鳴において鳴り響かせる。その未聞の響きは、言語と言語の対等で親密な関係とともに、それぞれの言語の新生を証し立てている。

このとき言語は、「抑圧された者たち」から声を奪ってきた暴力の歴史の過程に介入しながら、詩の可能性を拓いているのではないか。ベンヤミンが「翻訳者の課題」や雑誌『新しい天使』の予告文などで示した「文学」の枠組みを越えて、文学の媒体が翻訳から創られうるのではないだろうか。今回の発表では、その後のディスカッションも含め、「翻訳者」でもあるパウル・ツェランの詩作や、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの「聞き書き」からの文学にも触れながら、このようなことを参加者に問いかけた。それに対していくつか反応があったのは心強かった。ここまで続けてきた、「歴史」の傷が言語に刻まれていることを引き受けながら「うたう」言葉のありかを探る研究をさらに深める刺激が得られた。

滞在中に訪れたポーランド・ユダヤ人歴史博物館(POLIN)の外観。当地のユダヤ人の千年の歩みを、ホロコースト以後まで辿ることができる。ライナー・マフラマキによる建築も見ごたえがある。

9月28日から翌日にかけ、研究集会では、発表を行なった「言語の正義および言語的実践」をテーマとするパネル以外に、「正義の身体的ないし空間的実践」、「歴史、記憶と正義」、「正義と共同体のさまざまなヴィジョン」、「イメージとヴィジュアル・アートの/における正義」、「法、正義と政治」をテーマとするパネルで研究発表とディスカッションが続いた。いずれも刺激的だったが、学ぶことが多かったのはやはり、29日の夕方に行なわれたエリ・フリートランダーの基調講演だった。「言語、正義の言語」と題されたその講演は、先に触れたように、ベンヤミンの初期の言語哲学が、ショーレムとの交友も介しつつ、正義論と密接に関連していることを、言語の側から見通す議論として非常に示唆的だった。

フリートランダーは、所有の秩序が正義に結びつくことはありえないという「正義という範疇についての論考のための覚え書き」のテーゼと、言語の本質を「名」に見届ける言語論との照応を内在的に解明していた。正義が「現に存在するものの倫理的範疇」であることは、所有の前提である「原゠分割 Ur-teil」としての判断によって限定されることのない内実を湛え、実質的に何かを語る言葉が証し立てる。そこには、ベンヤミンが初期の言語論で語る言語自体の「内部集中的」全体性ないし無限性が現われている。フリートランダーによれば、その対極に位置するのが、所有する主観性の権化とも言うべきアレゴリーの空虚さである。ただし、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』で論及するのは、アレゴリーの反転である。

バロック悲劇の登場人物は、「殉教者」の姿などが示すように、所有の秩序の神話的暴力の犠牲になっていく。そのことを寓意的に描く記号が水平の次元で果てしなく連なっていくなか、アレゴリーを作る主観は垂直的な次元に目覚める。このことは、アレゴリーとして語り出された言葉が、一つの文字であるままに、みずから語り始める出来事として表わされる。このとき言語は、現世の秩序ないし近代的な制度の限界を越えながら、あらゆる限定を越えたところにこそ正義があることを指し示している。フリートレンダーによれば、それぞれの存在の貴重さが言葉において鳴り響き、祝福される「世界の状態」に正義があるとベンヤミンは考えていた。ここにある正義の言語は、正義と幸福の関係をも照らしている。

このようなベンヤミンの思考の一貫した解釈に触れるとき、翻訳としての言語と歴史の関係、そして「目覚め」からの新たな歴史と、救済としての正義の関係への問いを深めたい思いに駆られる。「正義の政治──テクスト、イメージ、実践」をテーマとする今回の研究集会において、こうした問題意識は、ある程度参加者に共有されていたように思われる。ただし、多くの参加者のテクストへのアプローチは、それぞれの地域のアクチュアルであると同時に歴史的な問題にみずから切り込んでいく姿勢と深く、そして近いところで結びついていた。今回の集会ではブラジルからの参加者が、ポスト植民地主義の状況を、支配者の「野蛮のドキュメント」を見返しつつ見通すのに、あるいは圧政下で心身に傷を負い、声を奪われた人々の記憶がすくい取られる場所を拓くのに、ベンヤミンの著述を活かしていた。

あるいは、戦後の「平和利用」とも結びつく核開発の歴史を動かす「核」の神話を、ベンヤミンが『パサージュ論』のために綴った言葉から見通そうとする発表もあった。こうした研究の方向性とともに多くを考えさせたのが、今回の研究集会を組織するのに関わったポーランドの研究者、アーティスト、そして活動家の問題意識だった。この人々は、すでに一週間ほど後に迫った議会の総選挙を見据えながら、とくに2015年以後、「法と正義」の名の下で──ベンヤミンの思想に照らせば、法と正義のあいだには架橋しがたい深淵があるはずだが──自由も、その正義も奪われてきた状況を、ワルシャワ市の博物館でその特別展と関連して行なわれたパネル・ディスカッションや、集会の最後のセッションで問いただしていた。

博物館での特別展「これはわたしの物語ではない」は、ベンヤミンの「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」を参照しつつ、ポーランドの子どもたちが心身に負った傷の記憶を、現代美術から問うていた。その会場には、幼年時代に傷を負うことの重みを掘り下げる表現とともに、宗教的な背景もある性暴力を示唆する表現も見られた。最後のセッションでは、選挙を前に異性愛にもとづく「家族」の神話が持ち出されている状況も浮かび上がっていた。とくに気にかかったのは、ゲットーの跡を歩く際にガイドを務めてくれた研究者の話である。それによると、ゲットーで、あるいは収容所などでホロコーストの犠牲になったユダヤ人の記憶を掘り起こし、伝えていく活動を進めている研究者が、政権側からの攻撃にさらされた。

ワルシャワ・ゲットーの市街における場所を示すモニュメント

このことは、関東大震災と、それとともに起きた朝鮮人らの虐殺から百年の節目を迎えるなか、政権の中枢から「虐殺の記録はない」という声が出てくる列島の状況を想起させずにはおかない。実は、今回のワルシャワにおける研究発表を準備するにあたり、この虐殺にも結びついた、そして今も過ぎ去ってはいない言語間の関係も念頭にあった。その神話が問われないまま残存し、虐殺の歴史が否認されながら続くのに抗いながら、言語と言語が共鳴する回路を切り開く言葉は、どのように紡がれうるのだろう。ベンヤミンが綴った言葉は、この問いに領域横断的に取り組む余地を開いている。ワルシャワでの研究集会で講演や発表に、さらにはディスカッションに接し、このような感触を得た。

ポーランドの研究者は、そして世界各地の研究者は、ベンヤミンが問うた「神話的暴力」の歴史が今も続いているのに抗して彼のテクストを読み続けている。このことを共有しようという問題意識が、「正義の政治──テクスト、イメージ、実践」をテーマに設定する背景にあったにちがいない。それに寄せる発表を携えてポーランドの各都市から、ドイツ語圏をはじめヨーロッパ各地から、南北アメリカから研究者がワルシャワに集まっていた。その列に加わることができたのは喜ばしいが、アジアを拠点とする参加者が他に見られなかったのは寂しい。2025年に予定されている研究集会では、複数のアジアからの研究者が、ベンヤミンの著作の「死後の生」が繰り広げられる新たな地平を切り開くことを願っている。

武生国際音楽祭2023に参加して

彼岸が過ぎたにもかかわらず、ここ福岡では残暑が続いています。日中は真夏のような陽射しが照りつけます。とはいえ、風が軽くなってきたのには秋を感じます。未だ向日葵や朝顔が咲き誇るなかに、彼岸花をはじめ秋の花も目につくようになってきました。これや撫子など、秋に咲く花には少しはかなさを感じます。時は過ぎていきます。そして、それとともにやり残していることが迫ってきます。ここのところ、その現実に向き合えないほど気ぜわしく過ごしておりました。そのため、二週間ほど前まで参加していた今年の武生国際音楽祭についてお伝えするのがすっかり遅くなってしまいました。

福井県越前市の文化センターを中心として9月3日から10日にかけて開催された武生国際音楽祭2023に、今回は国際作曲ワークショップのゲストの一人として参加させていただき、レクチャーも一つ持たせていただきました。その機会を設けてくださったこの音楽祭の音楽監督である細川俊夫さん、作曲ワークショップでのレクチャーの準備などにご尽力くださった木下正道さんはじめ、ワークショップのアシスタントのみなさん、そして音楽祭を主催する武生国際音楽祭推進会議の事務局のみなさんに心から感謝申し上げます。今回の音楽祭で響いた音楽は、昨年よりさらに研ぎ澄まされていたと感じました。

音楽祭が中盤を迎えつつあった9月6日に武生に着いて、最終日まで演奏会を聴いたり、作曲ワークショップのレクチャーや公開レッスンに加わったりなどしていたのですが、いずれも刺激に富んでいました。とくに今回ワークショップの講師に招かれたユステ・ヤヌリテさん、マルト゠マティス・リルさん、そして坂田直樹さんの作品は、一つの音を徹底的に突き詰めたうえで、そこから広がる響きを繊細に構成する作曲の可能性を説得的に示していたと思います。なかでも9月8日の「細川俊夫と仲間たち」で演奏されたヤヌリテさんの《アリア》と坂田さんの《見えざる河》は、そのような意味で印象的でした。

リトアニア出身のヤヌリテさんの《アリア》は、簡素なモティーフに内在する音響が、微かに輝いたり、翳ったり、あるいは広がっては収縮する過程を、ひと続きの歌として柔らかに響かせる作品と言えるでしょう。坂田さんの《見えざる河》は、尺八を鳴り響かせるような音が、息とともに発せられ、そのなからひと筋の流れが生じてくる出来事を、例えば弦楽器を弓ではなく、細い木の棒で鳴らすといった工夫を交えつつ、「楽音」とは言えない音を含んだかたちで響かせる作品として興味深かったです。いずれも西洋の音楽の枠組みを越えるかたちで、歌という出来事の身体性と時間を、独特の音響で伝えていました。

これらの作品の魅力を見事に伝えていたのが、「時代を超えて響け、弦楽四重奏の調べ」をテーマに掲げる今回の音楽祭に、テーマを代表するグループとして招聘されたクァルテット・インテグラでした。緊密なアンサンブルと若々しい意気込みを感じさせる作品へのアプローチが特徴的なこの弦楽四重奏団は、9月7日に開催された「妙なるハープの音色 吉野直子と名手の競演」の後半でも、ドナトーニの《そのハツカネズミは笑わない》とベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の見事な演奏を聴かせてくれました。なかでも前者の演奏では、うごめくような運動の展開が、間然することのない過程として響きました。

ベートーヴェンの作品135の弦楽四重奏曲をはじめ、今回の音楽祭で作曲家が最晩年に書いた作品がいくつも取り上げられたのも印象に残ります。ただし、クァルテット・インテグラの演奏もそうでしたが、その演奏はけっして枯淡の境地を響かせるものというよりは、むしろ作品に内在するみずみずしい魅力を伝えていました。なかでも、ルオシャ・ファンさんによるショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタの演奏は、この作品が透明な歌に貫かれていることを見事に伝えていました。それによって第二楽章のアイロニーはいっそう厳しく響きます。第三楽章の最後に消え入る歌の深さにも、心を動かされました。

ショスタコーヴィチのソナタが奏でられたのと同じ9月7日に、R・シュトラウスの《四つの最後の歌》で、どこまでも自然な歌の流れと優美なその輝きを聴かせてくれたイルゼ・エーレンスさんは、それに先立って、細川俊夫さんの編曲による「五木の子守歌」の深い哀しみも響かせていました。この曲は、ギターのために編曲された11曲の《日本のうた》の言わばアンコールのようなかたちで歌われたのですが、エーレンスさんの歌唱は、ヤコブ・ケラーマンさんのギターの繊細な演奏とともに、編曲によって浮き彫りにされた民謡や唱歌などの線を、海を越えて通じるものとして浮かび上がらせるものでした。

それにしても、エーレンスさんの歌の息遣いは、細川さんの作品との深い親和性を感じさせます。9月9日に行なわれた「新しい地平コンサートIII」では、和泉式部の短歌にもとづく《三つの愛のうた》において、自身の強い憧憬の影像を自然のなかに見て取る魂の動きを、陰翳を感じさせる声で響かせていました。また、その前日の「細川俊夫と仲間たち」を締めくくった《三つの天使の歌》では、ゲルショム・ショーレムとエルゼ・ラスカー゠シューラーの詩に込められた、地上の世界を彼岸から見返す強い眼差しを、輝かしい高声で鳴り響かせていました。いずれも歌の可能性への問いを喚起する見事な演奏でした。

ところで、すでに述べたとおり、今回の音楽祭のテーマは弦楽四重奏だったわけですが、9月7日の作曲ワークショップにおいて、その可能性を作曲家が考える契機になればと、「四重奏の美学へ──愛の概念を手がかりに」と題するレクチャーを行ないました。プラトン以来哲学において論じられてきた、またヘルダーリンがディオティマに宛てた詩の数々に込めた愛の概念を出発点に、それらの詩が埋め込まれたノーノの《いくつもの断章──静寂、ディオティマへ》と、細川さんの《パッサージュ》を論じました。併せて両者の結節点としてベートーヴェンの作品132の弦楽四重奏曲にも触れました。準備過程で、これら三つの弦楽四重奏の傑作から、音楽そのものへの問いに向けて多くの刺激が得られたのも幸いでした。

弦楽四重奏の演奏としては、9月9日の「室内楽の至宝」において毛利文香さん、外村理紗さんのヴァイオリン、ファンさんのヴィオラ、そして岡本侑也さんのチェロによって、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」が、歌がほとばしり出る運動を鮮烈に伝えるかたちで奏でられたのも忘れられません。「細川俊夫と仲間たち」において上野由恵さんのフルート、北村朋幹さんのピアノ、そして岡本さんによって細川さんの《レテの響き》が、ひと筋の線を描くかたちで演奏されたのも特筆されます。この三名の息の合ったアンサンブルは、音楽の息遣いと一つになりながら曲の核心を響かせていました。

正覚寺山門

この演奏をはじめ、とくに「細川俊夫と仲間たち」における現代の作品の演奏は、三十年を超えて続く音楽祭の精華を示すものと思われます。その一つとして、エストニア出身のリルさんが松尾芭蕉の俳句から着想を得た《わが泣く声は秋の風》も挙げられるでしょう。一つの音響に亡き友人への強い思いを込め、そこから風景を立ち上げていく音楽の空間性は、映像との協働にも開かれています。レクチャーで紹介されたヴィデオ・アートとの協働は、映画と音楽の結びつきを考えるうえでも刺激的でした。武生国際音楽祭が、こうして音楽の可能性を切り開きながらさらに発展することを願っているところです。

百年の九月を前に

福岡アジア美術館で開催されている特別展「水のアジア(9月3日まで)に出品されている八名のアーティストの作品はいずれも強い印象を残したが、なかでも比佐水音の日本画は胸に沁みた。絵の具や墨の幾重もの層によって水の流れを繊細に織り上げた画面は、豊かな運動を感じさせると同時に静けさによって貫かれている。それゆえ、水の音が流れの輝きのなかから響いてくる。それを取り巻く風のそよぎとともに。とりわけ滝を描いた《響》と題された最近の二作(2021/22年)は魅力的だった。その一つでは、力強く流れ落ちる動きと、水煙が立ち上る動きが溶け合うなかに、虹が浮かび上がる。

縦長の五つの画面によって構成される《いきてはいたる》(2019年)も感銘深い。それは、雲間に出た月の光の下に、五面を貫く水の流れを優しく浮かび上がらせる。その流れは、ところどころ月明かりを反射するように輝いている。同じように月明かりを受けるかたちで墨で描き出された草花には、川の岸辺に生きたものたちの記憶が宿っているようでもある。五つの画面それぞれのあいだには、あえて間隔が設けられていたが、そのことは見る者が汀に佇む間を与えているように感じられた。こうした作品の佇まいは、日本画の技法の奥深さを感じさせると同時に、清新な印象を与えるものだった。

そのような作品がどこから生まれてくるのだろうと興味を持ち、「水のアジア」展と並行するかたちでギャラリーEUREKAで開催されていた(8月4日〜20日)比佐水音の日本画展キオクカナタにも足を運んだ。そこでは、《いきてはいたる》と対をなすとも言える《はるか かなた》(2023年)をはじめ、近作をつうじて、比佐の技法の繊細さと同時に、そこから生まれる絵画の世界の自然な広がりを間近で感じることができた。その際、日本画の技を深めながら現在に至るまで作品を描き継ぐ原点になったのが、熊本で訪れた展覧会で堅山南風(1887〜1980年)の日本画に打たれたことだとうかがった。

そのこともあって、熊本に生まれ、横山大観に師事した堅山南風のことが気になっていた。彼のことを調べるうちに関東大震災を記録した作品を残していることを知った。1925年に成立した《大震災実写図巻》である。そのような時期に、この《図巻》が、作品を所蔵する真如苑の半蔵門ミュージアムの特集展示で展覧されている(11月5日まで)ことを聞き知った。サントリーホールのサマーフェスティバルにおけるオルガ・ノイヴィルトのオーケストラ・ポートレートなどのために東京へ行った際、この特集展示「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観玉堂・青邨・蓬春」を観ることができた。

展示会場で堅山の三巻の《図巻》を目の当たりにすると、巣鴨の自宅で震災に遭い、都市の壊滅に直面した画家の驚愕が伝わってくる。浅草の凌雲閣の崩壊をはじめ、震災のさまざまな場面が克明に描き出されている。何よりも印象的だったのは、建物の崩壊に巻き込まれた際の狼狽や、家族と生き別れになる苦悩などが、人々の身ぶりから浮き彫りになっている点である。たしかに震災から二年を経て完成した絵画には、後に公開された記録写真などを基に出来事を再構成した部分もあるだろう。列車の脱線と転覆など、言わば絵になる震災の情景として描かれているようにも見えなくはない。

しかし、堅山という画家の関心は、すべてを呑み込む紅蓮の炎に象徴される災害の巨大さ以上に、これに巻き込まれた市井の人々の心情の動揺へ向けられているように感じた。それは例えば、台座が近親者の消息を尋ねたり、伝えたりする貼り紙で覆い尽くされた上野の西郷隆盛の銅像──そのありさまも異様だが──の周りに集まって不安そうに一枚一枚を見つめる人々の表情にも表われていよう。それ以上に印象的だったのは、困窮した人々の殺気立った顔である。そこには、見る者に恐れを感じさせるほどの凄みがあった。堅山は、その表情が人に向けられ、そのことが暴力の発動に結びつく様子も描いている。

関東大震災から百年の節目を迎えるのを機に開催された今回の特別展示において、残念ながらその実際の画面を見ることはできなかったが、竪山の《図巻》のすべての絵を縮小して見せるパネルによれば、そこには「自警団」と題された絵が含まれている。震災直後から東京とその周辺に次々と組織された「自警団」の「活動」を記録した貴重な同時代の絵画と言えよう。そこでは、朝鮮人と見なされた者が縛り上げられ、凶器で殴打されようとしている。別の一角では、嫌疑をかけられた者が詰問されている。たき火に照らされ、方々から指差された人の恐怖に震える顔が浮かび上がる。

「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家」の展示会場の壁面には、この図巻にしたためた堅山の序文が書き起こされていた。そこからは、大震災を絵で記録することに対する彼の使命感と、この巨大な災厄の犠牲になった人々の魂に対する深い思いが伝わってきた。この序文では、人々が「流言蜚語」に惑乱されたことへの戒めが語られていた。恐怖と暴力が噴出する「自警団」の場面は、この過ちを象徴するものとして描き残されなければならなかったのだろう。その一方で、民衆の惑乱の要因を修養の不足に帰するのは、あまりにも巨視的で抽象的であるように思われた。

朝鮮半島の植民地支配が震災の13年前には「併合」に達していたことや、そこに至る過程で朝鮮人に対する差別感情が浸透していたこと、さらにはそれをメディアが煽っていたことを見通すと同時に、朝鮮半島に生きる人々を幾重にも抑圧する支配が、1919年の三・一独立運動に結びついたことをふり返り、「日本人」であること自体に問いを差し向ける省察。これを堅山は修養の内容として想定していただろうか。彼の議論には、今からすると踏み込みの弱さを感じないではいられない。同じような印象は、大震災とそこでの朝鮮人虐殺を同時代に描いた江馬修の小説『羊怒る時関東大震災の三日間』からも受けた。

江馬修『羊の怒る時』(ちくま文庫)

堅山が《実写図巻》を完成させたのと同じ1925年に刊行され、最近ちくま文庫で復刊された江馬の『羊の怒る時』は、在郷軍人らが「朝鮮人が暴動を起こしている」といったデマを広める様子や、流言に躍らされた人々が「朝鮮人狩り」に走る様子などを克明に描き出す一方、その問題を「教養」の不足に帰する小説の展開を示している。もちろんその「教養」とは「人種的偏見」を克服するものではあるが、「教養」という言葉にはどこか外在的な視点を感じないではいられない。ちなみに、堅山が「自警団」の画面に描き出す縛り上げられた人の姿は、江馬の小説に描かれる朝鮮からの留学生の姿と重なる。

こうした限界を感じさせるとはいえ、堅山南風の《関東大震災実写図巻》と江馬修の『羊の怒る時』が震災と虐殺からわずか二年後に、これらの災厄のありさまを克明に描き出すとともに、それに巻き込まれることをも浮き彫りにする作品として成立したのは、やはり貴重と思われる。これらの作品は、百年前の九月の震災と虐殺をふり返る際、繰り返し参照されるべきだろう。その一方で、とくに今もその事実を否定しようとする歴史修正主義的な動きが絶えない震災時の朝鮮人虐殺に関しては、そのドキュメントを文書の記録や体験者の言葉を基に残そうとする努力が重ねられてきたことも忘れられてはならない。

その一つを、8月20日に北九州市の枝光本町商店街アイアンシアターで開催された「百年芸能祭──鉄の町にて」で見ることができた。その冒頭で、呉充功監督のドキュメンタリー映画『隠された爪跡』(1983年)が上映された。それは関東大震災時の朝鮮人虐殺の犠牲者が荒川の河川敷に埋められていることをめぐる証言を集め、犠牲者の遺骨の試掘が行なわれる様子を記録した映画である。一時間ほどの作品だが、非常に粘り強く作られている印象を受けた。虐殺の体験者の証言を丹念に引き出すとともに、それを一つひとつ歴史的な記録と結びつけていこうとする制作の姿勢が映像から伝わってきた。

何よりも、今は聴くことのできない虐殺の体験者の言葉が、その身体から絞り出される様子が映し出されるのに引き込まれた。映画には、虐殺をかろうじて生き延びた者と、虐殺する側にいた者との出会いも記録されていた。枝光での「百年芸能祭」では映画の上映に続き、体験者をはじめとする当時の人々の言葉から東京での虐殺を浮き彫りにした加藤直樹の九月、東京の路上で』(ころから、2014年)の朗読が行なわれた。「1923年関東大震災 ジェノサイドの残響」という副題を持つこの作品に収められた当時の子どもを含む体験者の証言とそれに寄せた加藤の言葉を、たにせみきが一つの舞台に構成していた。

加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから)

巨大な災厄に巻き込まれた者の不安や虐殺を目にした者の恐怖に迫りながら、百年前の九月の情景を開く谷本仰のヴァイオリンに乗って、虐殺の証言が声として響くのに耳を澄ました。その声を通して百年前の路上の出来事を想像するとは、今回の「百年芸能祭」の最後に演じられた朴康秀の力強いタルチュム(仮面劇)が語りかけていたように、憎悪の対象にされ、そして百年前には虐殺の犠牲になった一人ひとりの名と生に思いを寄せることでもある。それを貫くのは、歴史の否定と結びつきながら押し寄せ、「普通」の「日本人」と異なる背景を持つ人々を恐怖に陥れている「ヘイト」の波への抵抗にほかならない。

「百年芸能祭」では、鄭正淑によるサルプリ(祈願舞)も披露された。その寄せては返すような動きは、死者の記憶を甦らせながら、その魂の浄化を祈願するように見えた。その舞いは、過去をふり返るように力を溜めては、水の流れのように広がっていく。福岡アジア美術館の「水のアジア」展で見た比佐水音の日本画を貫く水の流れも、同じようなリズムを持っているのかもしれないと思った。それと心の波長を合わせながら、百年前の関東大震災に朝鮮人などの虐殺が続いた歴史を省み、その犠牲となった一人ひとりの魂とともに歩むことが、百年の九月を前に求められている。

2023年初夏の仕事

大江健三郎の謦咳に一度だけ接したことがあります。1997年、東京オペラシティのオープニングに際してタケミツ・メモリアルの名を冠したそのコンサートホールで行なわれた作家の講演会を聴きに行ったのでした。当時親交を深めていたエドワード・W・サイードの『音楽のエラボレーション』(大橋洋一訳、みすず書房)の音楽論を大江なりに解きほぐしながら、「エラボレーション」の概念を、テーオドア・W・アドルノがベートーヴェンの音楽について論じていた「晩年様式」の形成とも結びつけていく内容だったと記憶しています。大江自身の問題意識を背景に、サイードの「対位法」の概念にも呼応しつつ、音楽と文学を往還する話は、徐々に沁み入り、心はいつしか熱く満たされていました。

それからおよそ四半世紀以上を経て、今春惜しくも逝去した大江の作品を論じる機会をいただいたことに特別な感慨を抱かざるをえません。6月末に刊行された詩と批評の雑誌『ユリイカ』の2023年7月臨時増加号「総特集(追悼特集)大江健三郎 1935–2023」に、「立ちすくむ人の人間への問い──大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を読み続けるために」と題する論考を掲載していただきました。大江健三郎の文学に早くから取り組んでこられた素晴らしい先達や、かねがね尊敬している文学の研究者が居並ぶなかで少々気後れがしますが、作家が広島の地で抱いた人間への問いに向き合うよい機会をいただいたと考えております。

1965年に岩波新書の一冊として刊行された『ヒロシマ・ノート』──同じ年には岩波新書で山代巴編『この世界の片隅で』が出ています──で提起される人間そのものへの問いをさらに掘り下げながら、大江健三郎の問題意識を今に受け継ぐために、また「サミット」後にこの『ノート』を読むために、「立ちすくむ人の人間への問い」をしたためたつもりです。他の著者の力のこもった論考と併せてご一読いただけると幸いです。今回の拙稿を構想するにあたり、大江が今からちょうど50年前の1973年に、新潮文庫の原民喜戦後作品集『夏の花・心願の国』を編んだことも強く意識せざるをえませんでした。

その編者解説に大江が記した次の言葉を、「立ちすくむ人の人間への問い」のエピグラフに記しましたが、これは次の仕事の議論にも結びつきました。「われわれは、原民喜がわれわれを置き去りにして出発した地球に、核兵器についてなにひとつその脅威、悲惨を乗り超える契機をもたぬまま、赤裸で立っているのである」。6月3日に広島平和記念資料館のメモリアルホールで開催された藝術学関連学会連合第17回公開シンポジウム「芸術と戦争/平和」に、広島芸術学会を代表するかたちでパネリストとして参加しましたが、その際、先の大江の言葉にある人間の「赤裸」の姿を、1933年にヴァルター・ベンヤミンが「経験と貧困」というエッセイに浮かび上がらせた、「破壊的な奔流と爆発の力の場の真んなかにいる人間の身体」の剝き出しの姿と照らし合わせ、ヒロシマ以後の「傷からの芸術」の展開の意義に迫ろうと試みました。

今回の報告「傷からの芸術──ヒロシマからの芸術が問いかけるもの」では、原民喜の詩作と殿敷侃の芸術の一端を、歴史の断絶とも重なる、癒えることのない傷からの芸術の展開として省みたうえで、傷を言葉を換えながら名づけ続け、それを分かち合う回路を開くところにヒロシマ以後の、そしてこの困難な時代における生存の芸術がありうるのでは、という問題提起を行ないました。「ヒロシマ」への音楽のアプローチをそこに内在する物語の問題を含めて踏み込んだかたちで検討した沼野雄司さんの発表は刺激的でしたし、日中戦争期からの「戦争画」の展開を、日本の近代絵画自体が抱えてきた問題と、メディアの問題、そして戦争の「理念」の問題と関連づけて論じた河田明久さんの発表からは学ぶことが多かったです。

6月には、勤務先の西南学院大学の行事でもお話する機会をいただきました。22日には、大学のチャペルアワーのなかで、「川から考える平和──広島の川の記憶から」と題して短い講話を行ないました。広島の川の逆流と原爆の記憶の回帰を重ねつつ、今原民喜の作品を読む意味などについてお話ししました。戦争が続くなか、また核の破局も迫るなか、途方もない暴力の前に剝き出しにされた生を顧みるきっかけになれば幸いです。なお、チャペルアワーは、授業期間の火曜、水曜、木曜の午前中に大学のチャペルで行なわれている祈りと省察のひと時です。この静かな時間を学生と教職員が分かち合えるのは貴重なことと思います。

広島の川(大田川放水路)の夕景

6月30日には、活字文化推進会議と西南学院大学の共催により西南コミュニティーセンターで開催された読書教養講座のコーディネーターを務め、作家の温又柔さんと対談させていただきました。「はざまから紡ぐ物語」というテーマの下で繰り広げられた温さんのお話は示唆と刺激に満ちていて、講座の参加者に文学の可能性を力強く伝えたようです。台湾語、中国語のあいだを行き来しながらエクリチュールのなかにさえずり合う響きを宿らせ、日本語の表現可能性を拡げながら、「国」、言語、性など、人間が歴史の過程で作ってきた境界のはざまに閉じこめられている人々の居場所を物語のうちに切り開く温さんの文学の創造性と現代における意義が生き生きと伝わるお話を聴けたのは本当に幸せでした。

当日は交通に支障が出るほどの悪天候でしたが、温さんをお迎えしての読書教養講座には多くの学生、教職員、そして一般の方々にご参加いただきました。遠方からもお越しくださったみなさまに心より感謝申し上げます。『真ん中の子どもたち』(集英社)、『魯肉飯のさえずり(中央公論新社)、永遠年軽』(講談社)という温さんの代表作に取り組んで、その世界と主題をめぐる興味深い話を引き出してくれたゼミの学生にも感謝したいと思います。その姿勢は、講座に参加した学生の文学への関心を高めたはずです。福岡を最初の舞台とした最新の長編小説祝宴(新潮社)に始まる講座の模様は、追って活字文化推進会議から伝えられるものと思います。概要は、西南学院大学の「NEWS」として伝えられています。

5月下旬から7月上旬までのあいだに3篇の批評を公にしました。まず、5月27日付の中國新聞文化面には、広島交響楽団の創立60周年を記念して5月18日に開催された第431回定期演奏会の批評が掲載されました。五嶋みどりの音楽への愛と、下野竜也音楽総監督と広響が7年間の共同作業で積み上げてきたものが凝縮された演奏会について書く機会をいただいたことに感謝しております。「サミット」開会前日だったこの日は、広島の市街が物々しい警備の下に置かれましたが、そのような日に演奏会を開催するにあたっての主催者の苦労は並々ならぬものだったはずです。無事に演奏会を開き、心に残る音楽を届けてくださったことに感謝しているところです。ブルックナーの交響曲第1番のリンツ初演版を用いた演奏は、この作品を書いた時期の作曲家のどこかベートーヴェンを意識していると思われる音楽の息遣いと、そこにみなぎる覇気を音楽の熱として伝えるものでした。

6月15日に公開された公開されたMercure des Arts Vol. 93には、5月20日に銕仙会能楽研修所で「追善・一柳慧」と題して開催された青山実験工房第7回公演を評した拙稿が掲載されました。芸術家が領域横断的に協働する実験工房の精神が、能舞台において一柳慧の芸術に捧げられた公演でした。高橋アキさんと髙橋悠治さんが音楽の軸を形づくった舞台に立ち会えたことを、とても嬉しく思っております。今回、魂の邂逅の出来事を、時間が重層化し、波立つ空間に繰り広げたバーバラ・モンク゠フェルドマンさんの《松の風吹くとき》と、髙橋悠治さんの《夢跡一紙》が初演されました。後者は感銘深かったです。息子の死を悼む世阿弥の言葉に込められた悲しみを、簡潔でありながら強い音に凝縮させた作品は、一柳慧の追悼に捧げられると同時に、その芸術に応答する一曲だったように思います。

7月15日に公開されたMercure des Arts Vol. 94のBooksのコーナーには、堀朋平さんの『わ友、シューベルト』(アルテスパブリッシング)の書評を掲載していただきました。現代にも通じる激動を人々が経験した19世紀初頭の精神史的な布置のなかに、シューベルトという作曲家を愛すべき友として浮かび上がらせるとともに、その音楽の魅力を繊細に、かつ踏み込んだ視点から解き明かす一書としてご紹介したつもりです。拙評のなかでは紙幅の関係で触れられませんでしたが、堀さんの新著では、シューベルトの作品のユニークなディスクなどを紹介されるコラムも魅力的です。彼が完成させた最後のオペラ《フィエラブラス》のディスクを含め、いくつか手に入れたいと思うものがありました。

それから、イメージの美学を展開する場として研究仲間たちと続けている形象論研究会の雑誌形象』第5号が4月に刊行されました。第5号からは電子版のみとなります。このほどそのデータが大阪大学学術情報庫上で公開されました。第5号では、今年生誕120年を迎えるアドルノの美学が特集されています。彼の『美学理論』を読み直し、その議論のアクチュアリティを探る契機の一つになることを願っているところです。今回、その影響を受けながら美学を、実践哲学の一方向としても展開するクリストフ・メンケの論考「然りと言う──ニーチェの美的自由の概念」の翻訳を寄稿しました。最近日本語訳が刊行された『力──美的人間の根本概念』(杉山卓史他訳、人文書院)の主旨を、やや異なったモティーフを交えつつ論じた一篇として、力のこもった三篇の論文と併せてご覧いただければ幸いです。

さて、7月15日は、131年前にベンヤミンがベルリンに生を享けた日です。戦争とファシズムの時代を見据えながら、言語、歴史、そして芸術を根底から問う彼の思考は、死者とともにある生の道筋を、闇を深めつつある現在のうちに切り開こうとする試みに刺激を与え続けるはずです。岩波新書の一冊として2019年に上梓した『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書)をつうじて、彼の生涯と仕事に関心を持っていただけたら幸いです。また、一昨年上梓した『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社)が幅広い関心から読まれていることも耳にし、大いに力づけられています。

夾竹桃の花を目にすると夏の訪れを感じます。

今はこれらの拙著で示した研究をさらに深めつつ、それを起点とする思考をさらに、ベンヤミンを越えて展開したいと考えています。そのためにも、同じく7月15日生まれのジャック・デリダが『たった一つの、私のものではない言葉──他者の単一言語使用』(守中高明訳、岩波書店)で示した翻訳としての言語についての思考などを視野に入れながら、ベンヤミンの問いを掘り下げなければと思います。大江健三郎も、ヴィンフリート・メニングハウスの『敷居学──ベンヤミンの神話のパサージュ』(伊藤秀一訳、現代思潮新社)を媒介としてベンヤミンの思想に触れていたと記憶しています。サイードが『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社ライブラリー)のなかで、「歴史の概念について」のテーゼの一つを引用していたのも忘れられません。この両名にも刺激を与えたベンヤミンの思考の潜在力を掘り起こす仕事に、この夏はしっかりと取り組まなければと考えているところです。