流行語の類いには普段まったく関心がありませんし、とくに日本で「流行語」と呼ばれるものには、これからも興味が持てないと思いますが、イギリスのオクスフォード辞典の発行元とドイツ語協会が「今年の言葉」に、揃って英語で言う“post-truth”(ドイツ語では„postfaktisch“)を選んだことは、現実に世界を覆いつつある由々しい動きを映し出しているように見えます。事実を突き止め、真実を伝えることはもはや尊重されず、威勢よく見えたり、「元気になる」ように響いたりしさえすれば、あるいは「センセーショナル」でありさえすれば、どのような嘘でもまかり通ってしまい、大衆を動かしてしまう時代が実際に到来しつつあるというヨーロッパの人々の認識が、そこには表われているのではないでしょうか。それを象徴するのが、EU離脱の判断を下したイギリス連邦の国民投票と、アメリカ合衆国の大統領選挙の結果であったということは、ここドイツでは、この一年の回顧のなかでしばしば耳にします。
これらを含む動きのなかで無視しえない役割を果たしている──それゆえ、現在ドイツでも対策が進められているようです──のが、英語で“fake news”(ドイツ語では„falsche Nachrichten“)と呼ばれるものですが、これは不安を抱えて孤立した個人に、とりわけ強く訴えかけます。すでに都市に「大衆」が出現した19世紀に、鋭敏な芸術家が気づいていたとおり、そのセンセーションに反応することで、こうした個人は自己の存在を確かめ、それによって「マス」として一様に行動するようになるのです。ベルリンのクリスマスの市へのトラックによる襲撃事件が起きた後、実際にそのようにして„falsche Nachrichten“に踊らされる人々を目にしました。そのことを利用するのを、「新たなポピュリズム」と呼ぶ必要はないでしょう。嘘への反応を束ねることは、ファシズムの定義に当初から含まれていることではないでしょうか。ただし、その具体的な技術には、ディジタル時代ならではの変化が見られるようです。たまたま目にした新聞記事では、インターネットをつうじて世界中にばらまかれた“fake news”が、マケドニアの小さな街で作られている様子がリポートされていました。
とはいえ、日本の人々はすでに、とくに現政権下で長いこと“post-truth”的状況を生きているのではないでしょうか。たまに日本のマス・メディアのウェブサイトを見ると、そのような思いを強くせざるをえません。もちろん、地道に事実を追い、真実を伝えようと努めているジャーナリストがいることは存じていますし、その仕事に対してはいくら敬意を表わしても足りないと思っています。しかし、実際に公共空間にたれ流されているのは、世界で、いや日本でも今何が起きているのかを忘れさせながら、「日本」への空虚なナルシシズムを助長させる、その本質が“fake”であるとしか言いようのない「ニュース」ではないでしょうか。そのようななか、とくに沖縄の人々の生活を踏みにじるかたちで、日米の軍事的な一体性を強める基地建設が進められ、憲法の下で禁じられていたはずの海外派兵が既成事実化されようとしています。まもなく任期を終えようとしているオバマ大統領の広島訪問も、日本の現首相のパール・ハーバー訪問も、そのような「日米同盟」の動きを覆い隠すかたちで演出された観は否めません。
このような状況に対して、現在ヨーロッパで生活している経験にもとづいて一つだけ言いうることがあるとすれば、そうして戦争のなかに入り込んでいくことによって、戦争に関わる暴力は必ず、袋を裏返すかのようにして、形を変えて自分たちに跳ね返ってくるということです。今年に入ってもヨーロッパで繰り返し起きている痛ましい出来事のいくつかは、そのことを示していることでしょう。それに憎悪をもって応じるなら、このことは実際に住んでいる空間を、自分の手で破壊することになります。なぜなら、集団どうしの憎悪は、すでに後戻りできないほど雑種化し、複雑化した社会を、根底から破壊するからです。憎悪は、異質な人々のあいだを引き裂いてしまいます。そして今、そのことに“post-truth”的状況がひと役買っていることは、何よりも憂慮すべきことと思われます。センセーションに身を委せ、みずから知り、考えることを止めてしまうと、他者を集合的な属性でしか見られなくなって、他者の一人ひとりに対する細やかな注意力が失われてしまうのではないでしょうか。憎悪の根にそのような問題があることを示している一つが、最近通読したカロリン・エームケの近著『憎悪に抗して』(Calorin Emcke, Gegen den Hass, Frankfurt a.M.: Fischer, 2016)です。
それなしには「愛」の概念すらも考えられない、一人ひとりの他者に対する注意力。これが他者とのあいだに生きるなかに、不可欠のかたちで働いていることを思い出させ、それを深める契機をもたらしうるのが、人文学の知であり、芸術の営みであるはずです。これらの使命は今、従来にも増して重いものがあると考えられます。私自身は現在、一人ひとりの他者に対する細やかさを、歴史を生きるなかに、さらに言えば死者の魂とともに生きるなかに──それは、地上の生の基本的な条件をなしているはずです──回復する道を、歴史そのものを問うことをつうじて探っているところです。幸いなことに、今年は4月からそのための研究の機会をここベルリンで得ておりますが、時が経つのは早いもので、その期間も残り少なくなってまいりました。下記のクロニクルに挙げましたように、論文などはいくつか執筆し、すでに公にする機会にも恵まれておりますが、文献研究にはまだまだ不足を感じています。そして、あともう一つ論文をある程度の形にしておきたいとも考えています。
今年は12月に入って、積年の課題であった細川俊夫さんの対談書Toshio Hosokawa — Stille und Klang, Schatten und Licht: Gespräche mit Walter-Wolfgang Sparrerの翻訳を世に送ることができました。『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』という訳題にてアルテスパブリッシングから刊行されております。自然のなかに生きる魂の息吹から音楽そのものを考えさせる一書として、お手に取っていただければ幸いです。刊行に至る過程は、私にとって非常に学ぶことの多いものでした。また、自分の表現力のなさを呪いながら論文をドイツ語に訳して発表する機会を持てたのも、よい経験でした。校閲者と原稿を遣り取りする過程も学ぶことが多かったですし、論文の趣旨を理解してくれる人がいたことは、本当に嬉しかったです。中國新聞文化面「緑地帯」に、「ベルリン−ヒロシマ通信」と題するコラムを連載できたのも、またとない経験でした。これらを、今後少しずつ思考の表現形態の幅を広げる足がかりにできればと思いますが、その前提として地道な研究の積み重ねがあることは言うまでもないことでしょう。引き続きご指導のほどよろしくお願い申し上げます。来たる年がみなさまにとって、少しでも平和で幸せに満ちた一年になりますように。
■Chronicle 2016
- 1月25日:芸術批評誌『リア』第36号の特集「2015 戦争を視る」に、「褐色の時代に抗いながら戦争の核心に迫る表現の交響──広島県立美術館での『戦争と平和展』を見て」という表題の小文を寄稿させていただきました。2015年7月25日から9月13日まで広島県立美術館で開催された「戦争と平和展」の展覧会評です。ミロの《絵画》と靉光の自画像の同時代的な呼応を出発点としながら、ピカソ、井上長三郎、オットー・ディックス、浜田知明、香月泰男らにおける戦争の暴力の核心に迫る表現に触れるとともに、この展覧会に出品されていた作品からうかがえる戦争画の問題性にも言及する内容のものです。
- 1月27日/2月3日/2月10日:ヒロシマ平和映画祭2015/16の催しとして、「奥間勝也Artist Talk+新作上映会──広島で記憶と継承を考える:沖縄の映像作家を迎えて」と「消された記憶の痕跡を辿り、現在の暴力の淵源に迫る映画『ルート181:パレスチナ〜イスラエル 旅の断章』上映会」を、広島市立大学講堂小ホールを会場に開催しました。また、2月10日には、「ドキュメンタリー作品上映+Talk Session:ヒロシマ/広島/廣島を映像で見つめ、伝える──映像作家・プロデューサー平尾直政さんを迎えて」を広島市立大学サテライトキャンパスにて開催しました。
- 2月27日:成田龍一さんをはじめとする研究者が続けておられる科研費の研究会で最近の仕事を取り上げていただきました。岩崎稔さんに『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)を、村上陽子さんには『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ』(インパクト出版会、2015年)を、それぞれ綿密な読解にもとづいて論じていただきました。これらに対する応答の時間も取っていただきました。
- 3月1日:形象論研究会の雑誌『形象』創刊号に、「ベンヤミンの形象の理論──仮象批判から記憶の形象へ」と題する論文と森田團さんの『ベンヤミン──媒質の哲学』(水声社、2011年)の書評が掲載されました。論文は、ベンヤミンが初期から最晩年に至るまで繰り広げた形象の理論を、彼の言語哲学、歴史哲学、美学の結節点と捉えたうえで、彼の思考の核心をなすものとして浮き彫りにしようとする内容のものです。言語を媒体と考える言語哲学を踏まえつつ、形象それ自体が媒体として捉えられていることを念頭に置きながら、「美しい仮象」の批判を経て、想起の媒体にして新たな歴史の場となる可能性へ向けて形象の概念を洗練させていくベンヤミンの思考を辿りました。
- 3月20日:広島で開催された森元斎さんの著書『具体性の哲学──ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社)の合評会で、「出来事の生成の哲学、あるいは生きられるアナキズム」と題する書評を発表しました。
- 3月20日:広島市立大学広島平和研究所編『平和と安全保障を考える事典』(法律文化社)に、マルクス主義、国際共産主義運動、プロレタリア独裁、失地回復主義の項目を寄稿しました。
- 3月26日:中央大学後楽園キャンパスにて開催された中央大学人文科学研究所の公開シンポジウム「ドイツでオペラをつくるということ──ハンブルク歌劇場での細川俊夫《海、静かな海》初演を振り返る」にパネリストとして参加し、「細川俊夫の作品に見る現代の芸術としてのオペラの可能性」と題する発表を行ないました。ベルリンでの《松風》、デュイスブルクでの《班女》、広島での《班女》および《リアの物語》というように、ドイツと広島で細川俊夫さんのオペラ作品の上演に接してきた経験を振り返りつつ、能の精神から現代のオペラの表現の地平を開拓してきた細川作品の特質に触れました。そのことを踏まえて、ハンブルクで初演された《海、静かな海》の細川さんのオペラ作品における位置をあらためて測り、その初演を振り返ることによって、東日本震災および原発事故後の現代に向き合うこの新たなオペラの特徴を現代の芸術としてのオペラの可能性へ向けて考察しました。
- 4月1日:広島市立大学の学外長期研修制度にもとづくベルリンでの在外研究が始まりました。ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授の下で「〈残余からの歴史〉の哲学的・美学的探究」という研究課題に取り組んでいます。主に、ベルリン自由大学の文献学図書館とヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフを利用しながら研究を進めています。前期中の卒業論文の指導「卒論演習I」は、Skypeをつうじて行ないました。
- 4月10日:出版総合誌『出版ニュース』2016年4月上旬号の「書きたいテーマ・出したい本」コーナーに「残余からの歴史へ」と題する小文を寄稿しました。詩人パウル・ツェランが語った、破局を潜り抜けて最後に残った言葉を手引きに、破局の残余の記憶が星座のような布置を形成し、相互に照らし合わせるなかに、現在の危機が照らし出されるような残余からの歴史の理論的な構想を提示する内容のものです。
- 4月23日:4月23日から6月5日まで横浜美術館にて開催された「複製技術と美術家たち──ピカソからウォーホルまで」展のカタログに、「切断からの像──ベンヤミンとクレーにおける破壊からの構成」という論考を寄稿させていただきました。ベンヤミンが先の「複製技術時代の芸術作品」をはじめとする著作で示している、完結した形象の破壊、技術の介入によるアウラの剝奪、時の流れの切断などをつうじて新たな像の構成へ向かう発想を、クレーがとくに第一次世界大戦中からその直後にかけての時期に集中的に示している、作品の切断による新たな像の造形と照らし合わせ、両者のモティーフの内的な類縁性と同時代性にあらためて光を当てようと試みるものです。
- 5月6日:秋富克哉、安部浩、古荘真敬、 森一郎編『続・ハイデガー読本』(法政大学出版局)に、「ブロッホ、ローゼンツヴァイク、ベンヤミン──反転する時間、革命としての歴史」と題する論文を寄稿しました。これら三人のユダヤ系の思想家と、初期のハイデガーの時間論と歴史論を照らし合わせ、ユダヤ系の思想家たちが構想する「救済」と結びついた歴史の理論と、『存在と時間』の「歴史性」の概念に最初の結実を見ることになるハイデガーの歴史論との差異を見通す視座を探る内容のものです。
- 5月19日/20日:4月6日から8月1日にかけてパリのポンピドゥー・センターで開催された大規模なパウル・クレー展「パウル・クレー──作品におけるイロニー」に関連して関連してGoethe-Institut Parisにて開かれた国際コロック「パウル・クレー──新たな視点」に参加しました。展覧会評と合わせたその報告記は、形象論研究会の雑誌『形象』第2号に掲載される予定です。
- 6月27日:ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウムにて、ヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学についての研究の初期の成果を「想起からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学」と題して発表する講演を行ないました。
- 7月27日:青土社の『現代思想』2016年8月号の特集「〈広島〉の思想──いくつもの戦後史」に、「そこに歴史はない──ベルリンからグラウンド・ゼロとしての広島を思う」と題する論文を寄稿しました。ベルリンと広島のアメリカを介した結びつきに、広島の被爆から現在も続く核の歴史の起源があることを確認したうえで、その歴史を担う人物としてのアメリカ合衆国大統領の来訪を迎えた広島の現在を、歴史的かつ批判的に考察する内容のものです。とくにそこにある「軍都」の記憶の抑圧と国家権力を正当化する物語への同一化が、沖縄の米軍基地の問題をはじめとする現在の歴史的な問題の忘却に結びついていることを指摘しました。そのうえで、一人ひとりの死者の許に踏みとどまるかたちで被爆の記憶を継承していくことのうちに、国家権力の道具となることなく、他者とともに歴史を生きる道筋があることを、残余からの歴史の概念の研究構想のかたちで示唆し、この歴史のグラウンド・ゼロとして広島を捉え返す思考の方向性を提示しました。
- 8月16日〜19日:広島市立大学国際学部の専門科目「共生の哲学I」の集中講義を行ないました。
- 8月30日〜9月8日:中國新聞文化面の「緑地帯」に、「ベルリン−ヒロシマ通信」と題する全8回のコラムを寄稿しました。ベルリンでの在外研究期間中に見聞きしたことを交えつつ、今も続く核の歴史に、記憶することをもってどのように向き合いうるか、その際に芸術がどのような力を発揮しうるか、といった問いをめぐる思考の一端を綴るものです。
- 8月31日:原爆文学研究会の会誌『原爆文学研究』第15号に、能登原由美さんの著書『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(春秋社、2015年)の書評を寄稿しました。長年にわたり著者が取り組んできた「ヒロシマと音楽」委員会の調査活動の経験にもとづく楽曲分析と平和運動史を含んだ現代音楽史の叙述によって、「ヒロシマ」が鳴り響いてきた磁場を、政治的な力学を内包する場として、「ヒロシマ」の物語の陥穽も含めて浮き彫りにするものと本書を捉え、今後もつねに立ち返られるべき参照点と位置づける内容のものです。
- 9月25日/26日:ヴァルター・ベンヤミンが1940年に自死を遂げたスペインのポルボウを調査に訪れました。それをつうじて得られたことはいずれ著書などに反映させたいと考えています。
- 10月〜2月:広島市立大学国際学部の専門科目「専門演習II」と「卒論演習II」(卒論指導)を、Skypeをつうじて行なっています。「専門演習II」では、テオドーア・W・アドルノの『自律への教育』(原千史他訳、中央公論新社)を講読しています。
- 10月2日:ハンブルク・ドイツ劇場で活躍されている俳優の原サチコさんがハノーファーで続けておられるHiroshima-Salon(ハノーファー州立劇場のCumberlandsche Galerieにて)のトーク・セッションに参加させていただき、今ここで原爆を記憶することの意義と課題、そしてギュンター・アンダースの思想について、少しお話させていただきました。
- 10月20日/21日:ミュンヒェンのHaus der Kunstで開催されている„Postwar: Kunst zwischen Pazifik und Atlantik, 1945-1965“を観覧しました。この展覧会は、第二次世界大戦終結後の20年間の美術の展開ないし変貌を、Postwarという視点から、太平洋と大西洋の両方にまたがる世界的な視野を持って捉えようとする大規模なものです。そこに丸木位里、丸木俊の《原爆の図》から2点が出品されたことも含め、お伝えしていく予定です。
- 11月26日:ひろしまオペラ・音楽推進委員会が主催したひろしまオペラルネッサンス2016年度公演《修道女アンジェリカ》、《ジャンニ・スキッキ》(11月26日/27日、JMSアステールプラザ大ホールにて)のプログラムに、「生がその全幅において肯定される場を開くオペラ──プッチーニの『三部作』に寄せて」と題するプログラム・ノートを寄稿しました。「三部作」の作曲に際してプッチーニがダンテの『神曲』を意識していたことを踏まえつつ、第一次世界大戦のさなかに書かれたこのオペラの独自性に迫ろうとする内容のものです。歌とハーモニーの美しさが際立つ《修道女アンジェリカ》とドラマの展開が特徴的な《ジャンニ・スキッキ》の魅力に触れつつ、「三部作」が、ダンテの作品とは異なったかたちで生がその全幅において掬い取られる場を開いていると指摘しました。
- 11月29日:ベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウムで、「形象における歴史──ベンヤミンの歴史哲学における構成の理論」と題する論文をドイツ語に訳したものを発表する講演を行ないました。その日本語の原稿は、形象論研究会の会誌『形象』の第2号に掲載される予定です。
- 12月12日:細川俊夫さんの対談書『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』が、拙訳にてアルテスパブリッシングから刊行されました。2012年にドイツで出版された細川俊夫さんと音楽学者ヴァルター゠ヴォルフガング・シュパーラーさんの対談書Toshio Hosokawa — Stille und Klang, Schatten und Licht: Gespräche mit Walter-Wolfgang Sparrer (Hofheim: Wolke, 2012) の日本語版です。現代を代表する作曲家細川俊夫さんがその半生とともに、創作と思索の軌跡を語った対談書ですが、細川さんの作曲活動の全体に見通しを与えながら、その音楽の核心にあるものを浮かび上がらせる、本格的な細川俊夫論でもあります。一書にまとまった評論としては世界初です。日本語版には、細川さん自身による新たな序文、豊富な写真や譜例の他、2016年前半までの年譜、作品目録、ディスコグラフィを収録しています。