ガザを想う──映画『ガザ 素顔の日常』を見て

福岡アジア美術館を会場に開催されていた水俣・福岡展2023(認定NPO法人水俣フォーラム主催)の協賛企画として10月29日に開催された「水俣を想う歴史家と哲学者の対話」の終わりに、歴史家の藤原辰史さんが、パレスティナのガザ地区の海水が下水などによって汚染されていることに触れてくれた。2006年から続くイスラエルによる封鎖と、その後も度重なった武力攻撃によってガザの水道が機能しなくなり、下水が処理されないまま海に流されているという。そのために健康被害が心配されるほどに海水が汚れていく一方、飲み水を含めた生活用水の供給もできない状態が続いていることは言うまでもない。

それでもなお、人々は海に出る。海岸で遊ぶために、魚を獲るために、あるいはただ息をつくために。海が広がっていくのを眺め、波とともに吹き寄せてくる風を浴びると、生きている感触が得られるのだ。先の対談は、石牟礼道子の言葉に因んで「生類の歴史へ」というテーマをめぐって行なわれたが、地中海に面したガザ地区の人々は、海でこそ、自分が生類の一つであることを実感するにちがいない。そうした人々の生きざまを浮かび上がらせる映画が福岡で上映されていることを知り、仕事の合間を縫って見に行った。ガリー・キーン、アンドリュー・マコーネル監督のドキュメンタリー映画『ガザ 素顔の日常』である。

2019年に発表されたこの作品は、ガザの人々と海の深い結びつきを伝えている。冒頭に描かれる、子どもたちが巧みに泳ぐ姿から惹きつけられた。海で遊んでいるのは40人もの家族がいる漁師の孫たちだ。彼らは父や兄たちから船の操り方や網の扱い方などを学ぶ。こうして海で生きる技を体得する。アフマド少年は、ガザのみなに尊敬されるような漁師になって船を持ちたいと語っていた。しかし、海も封鎖されている。水質汚染の影響もあるのだろう。船を動かせる海岸から5キロメートル圏内では、ほとんど何も獲れないという。わずかに網にかかったイワシのような小魚が、子どもたちの貴重な蛋白源になっている。

もし漁をしているうちに見えない封鎖ラインの外に船が出てしまったら、漁船はすぐにイスラエルの軍艦によって拿捕される。漁師が拘束されることもあるという。ある老人の息子は犯罪の嫌疑をかけられ、5年ものあいだ拘留されていた。映画は、彼がようやく家族の許に帰ってくる日を追っていたが、その映像は、彼を英雄化するハマスの構成員が空砲を撃ちながら行進する様子をアイロニカルに描いているように見えた。一人の男は、ハマスが支配するようになってから、ガザは世界から見放されたと独白していた。占領、そして封鎖の暴力は、ガザの人々の生を締めつけ、その未来を鎖していく。

電気が頻繁に止まり、手仕事を細々と続けるのすらままならない。タクシーの運転手は、家族があり、仕事を続けられているのは幸せだと語るが、その彼も債務不履行のために収監されたことがあるという。若者が職を得られる可能性はきわめて低い。このような絶望的な状況のなか、生存はそれ自体抵抗であらざるをえない。そして、若者たちは抵抗を石に込めて壁の向こうへ投げつける。イスラエル軍の兵士は、それに対して容赦なく銃口を向ける。投石する若者たちは、重い傷を負う。命を落とすこともある。映画では、そのような若者の救護を務めとする救急隊員の必死の働きが印象深く描かれていた。

この救命士は無事でいるだろうか。イスラエル軍は今、救急車両の列に、それが負傷者や病人を運び込む病院などに、空からも地上からも苛烈な攻撃を行なっている。一連の攻撃によるガザ地区の住民の死者は、すでに一万人を超えたという。心身に傷を負った人の数はもはや計り知れない。病院とは言うまでもなく、病を患う者、負傷した者が治療と看護を受ける場所である。あるいは新たな命を宿した女性が出産し、その直後のケアを受ける場所であり、新たに生まれ出た命が育っていくために必要な医療を受ける場所でもある。家を失い、体調の不安を感じながら病院へ逃げ込んだ人も少なくないだろう。

そこにいるのは、他の場所へ移動することが困難な人々である。現在の状況で弱い立場にある人々が激しい砲火にさらされ、救護されないままに放置されている現状は容認しがたい。なぜ弱者に武器を向けるのか。そこには、ガザ侵攻を押し進めるイスラエルの現政権の基本的な姿勢が顔をのぞかせているように見える。そして、数多くの新生児を命の危険にさらしているところには、今やその攻撃性を剝き出しにしている人種差別的なイデオロギーの本質も表われていよう。政権にはパレスティナ人のことを「動物」だと言い放つ者もいるという。そのような他者観の下でガザの住民の虐殺が続いている。

ストップジェノサイド・ヒロシマによるキャンドルアクションのポスター

ここにあるのは、1948年からのナクバの連続であり、その要因として歴史家イラン・パペが挙げる民族浄化の企図のあまりも暴力的な顕在化である。その点でイスラエルの軍隊がガザ地区で進めているのは、ジェノサイドと言わざるをえない。哲学者ジュディス・バトラーも、「われわれ(ユダヤ人)を口実にするな Not in our name」と訴えながらそう指摘していた。このことを武力攻撃の当初から執拗に医療が標的にされてきた経緯と考え合わせると、恐怖に震える。映画をつうじて見た人と人の強い絆のなかで、また海の自然との深い結びつきのなかで真剣に生きる一人ひとりの命がここまで蔑ろにされるのか。

もう一つ容認しがたいと思われるのは、イスラエルの現政権の閣僚の一人が、核兵器の使用も選択肢の一つになるなどと軽々しく述べ立てたことである。原子爆弾の惨禍に遭った広島で長く暮らした者として、そのことには心の底からの怒りを覚える。その一方でこうした発言に、現在のガザを一掃してしまいたいという欲望も感じないではいられない。そのような欲望を背景に住民の生命を上から踏みにじってはばからない者は、ハマースによる無差別攻撃によって奪われた一人ひとりの命も、そのなかで行なわれた大規模な誘拐によって恐怖の下に置かれた一人ひとりの命も顧みていない。

こうした犠牲が、イスラエル軍の地上侵攻を容認させるようなかたちで報じられる一方、ガザが封鎖されてきたことや、ヨルダン川西岸地区とともにイスラエルの占領下にあることが、そこにある人間性の剝奪とともに取り上げられる場面はあまりにも少ない。ガザのパレスティナ人の犠牲も膨大な数としてしか語られなくなりつつある。先に触れたDemocracy Now!のインタヴューでバトラーが述べていたように、親に抱き上げられる前に息を引き取った赤ん坊を含め、ガザの死者一人ひとりが悼まれる回路が開かれる必要があるのではないだろうか。生あるものたちのあいだに、あらゆる境界を越えて。

誰ひとり殺されてはならない。そう考えるところから哀悼が分有されてこそ、国家的組織による殺戮と、その犠牲を容認する「戦争」の論理に内側から抗することができるだろう。虐殺は止められなければならない。たとえそれに対して直接に働きかけられなくとも、この出来事に潜む問題──それは、百年前に関東大震災のさなか、朝鮮人などの虐殺を引き起こした問題と同じ根を持っている──へ眼差しを向けるとともに、一つひとつの顔から注がれる眼差しを感じ続ける身ぶりを止めてはならない。このようなささやかな抵抗の重要性を気づかせてくれたのが、水俣・福岡展の会場に掲げられた犠牲者一人ひとりの遺影だった。

百年の九月を前に

福岡アジア美術館で開催されている特別展「水のアジア(9月3日まで)に出品されている八名のアーティストの作品はいずれも強い印象を残したが、なかでも比佐水音の日本画は胸に沁みた。絵の具や墨の幾重もの層によって水の流れを繊細に織り上げた画面は、豊かな運動を感じさせると同時に静けさによって貫かれている。それゆえ、水の音が流れの輝きのなかから響いてくる。それを取り巻く風のそよぎとともに。とりわけ滝を描いた《響》と題された最近の二作(2021/22年)は魅力的だった。その一つでは、力強く流れ落ちる動きと、水煙が立ち上る動きが溶け合うなかに、虹が浮かび上がる。

縦長の五つの画面によって構成される《いきてはいたる》(2019年)も感銘深い。それは、雲間に出た月の光の下に、五面を貫く水の流れを優しく浮かび上がらせる。その流れは、ところどころ月明かりを反射するように輝いている。同じように月明かりを受けるかたちで墨で描き出された草花には、川の岸辺に生きたものたちの記憶が宿っているようでもある。五つの画面それぞれのあいだには、あえて間隔が設けられていたが、そのことは見る者が汀に佇む間を与えているように感じられた。こうした作品の佇まいは、日本画の技法の奥深さを感じさせると同時に、清新な印象を与えるものだった。

そのような作品がどこから生まれてくるのだろうと興味を持ち、「水のアジア」展と並行するかたちでギャラリーEUREKAで開催されていた(8月4日〜20日)比佐水音の日本画展キオクカナタにも足を運んだ。そこでは、《いきてはいたる》と対をなすとも言える《はるか かなた》(2023年)をはじめ、近作をつうじて、比佐の技法の繊細さと同時に、そこから生まれる絵画の世界の自然な広がりを間近で感じることができた。その際、日本画の技を深めながら現在に至るまで作品を描き継ぐ原点になったのが、熊本で訪れた展覧会で堅山南風(1887〜1980年)の日本画に打たれたことだとうかがった。

そのこともあって、熊本に生まれ、横山大観に師事した堅山南風のことが気になっていた。彼のことを調べるうちに関東大震災を記録した作品を残していることを知った。1925年に成立した《大震災実写図巻》である。そのような時期に、この《図巻》が、作品を所蔵する真如苑の半蔵門ミュージアムの特集展示で展覧されている(11月5日まで)ことを聞き知った。サントリーホールのサマーフェスティバルにおけるオルガ・ノイヴィルトのオーケストラ・ポートレートなどのために東京へ行った際、この特集展示「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観玉堂・青邨・蓬春」を観ることができた。

展示会場で堅山の三巻の《図巻》を目の当たりにすると、巣鴨の自宅で震災に遭い、都市の壊滅に直面した画家の驚愕が伝わってくる。浅草の凌雲閣の崩壊をはじめ、震災のさまざまな場面が克明に描き出されている。何よりも印象的だったのは、建物の崩壊に巻き込まれた際の狼狽や、家族と生き別れになる苦悩などが、人々の身ぶりから浮き彫りになっている点である。たしかに震災から二年を経て完成した絵画には、後に公開された記録写真などを基に出来事を再構成した部分もあるだろう。列車の脱線と転覆など、言わば絵になる震災の情景として描かれているようにも見えなくはない。

しかし、堅山という画家の関心は、すべてを呑み込む紅蓮の炎に象徴される災害の巨大さ以上に、これに巻き込まれた市井の人々の心情の動揺へ向けられているように感じた。それは例えば、台座が近親者の消息を尋ねたり、伝えたりする貼り紙で覆い尽くされた上野の西郷隆盛の銅像──そのありさまも異様だが──の周りに集まって不安そうに一枚一枚を見つめる人々の表情にも表われていよう。それ以上に印象的だったのは、困窮した人々の殺気立った顔である。そこには、見る者に恐れを感じさせるほどの凄みがあった。堅山は、その表情が人に向けられ、そのことが暴力の発動に結びつく様子も描いている。

関東大震災から百年の節目を迎えるのを機に開催された今回の特別展示において、残念ながらその実際の画面を見ることはできなかったが、竪山の《図巻》のすべての絵を縮小して見せるパネルによれば、そこには「自警団」と題された絵が含まれている。震災直後から東京とその周辺に次々と組織された「自警団」の「活動」を記録した貴重な同時代の絵画と言えよう。そこでは、朝鮮人と見なされた者が縛り上げられ、凶器で殴打されようとしている。別の一角では、嫌疑をかけられた者が詰問されている。たき火に照らされ、方々から指差された人の恐怖に震える顔が浮かび上がる。

「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家」の展示会場の壁面には、この図巻にしたためた堅山の序文が書き起こされていた。そこからは、大震災を絵で記録することに対する彼の使命感と、この巨大な災厄の犠牲になった人々の魂に対する深い思いが伝わってきた。この序文では、人々が「流言蜚語」に惑乱されたことへの戒めが語られていた。恐怖と暴力が噴出する「自警団」の場面は、この過ちを象徴するものとして描き残されなければならなかったのだろう。その一方で、民衆の惑乱の要因を修養の不足に帰するのは、あまりにも巨視的で抽象的であるように思われた。

朝鮮半島の植民地支配が震災の13年前には「併合」に達していたことや、そこに至る過程で朝鮮人に対する差別感情が浸透していたこと、さらにはそれをメディアが煽っていたことを見通すと同時に、朝鮮半島に生きる人々を幾重にも抑圧する支配が、1919年の三・一独立運動に結びついたことをふり返り、「日本人」であること自体に問いを差し向ける省察。これを堅山は修養の内容として想定していただろうか。彼の議論には、今からすると踏み込みの弱さを感じないではいられない。同じような印象は、大震災とそこでの朝鮮人虐殺を同時代に描いた江馬修の小説『羊怒る時関東大震災の三日間』からも受けた。

江馬修『羊の怒る時』(ちくま文庫)

堅山が《実写図巻》を完成させたのと同じ1925年に刊行され、最近ちくま文庫で復刊された江馬の『羊の怒る時』は、在郷軍人らが「朝鮮人が暴動を起こしている」といったデマを広める様子や、流言に躍らされた人々が「朝鮮人狩り」に走る様子などを克明に描き出す一方、その問題を「教養」の不足に帰する小説の展開を示している。もちろんその「教養」とは「人種的偏見」を克服するものではあるが、「教養」という言葉にはどこか外在的な視点を感じないではいられない。ちなみに、堅山が「自警団」の画面に描き出す縛り上げられた人の姿は、江馬の小説に描かれる朝鮮からの留学生の姿と重なる。

こうした限界を感じさせるとはいえ、堅山南風の《関東大震災実写図巻》と江馬修の『羊の怒る時』が震災と虐殺からわずか二年後に、これらの災厄のありさまを克明に描き出すとともに、それに巻き込まれることをも浮き彫りにする作品として成立したのは、やはり貴重と思われる。これらの作品は、百年前の九月の震災と虐殺をふり返る際、繰り返し参照されるべきだろう。その一方で、とくに今もその事実を否定しようとする歴史修正主義的な動きが絶えない震災時の朝鮮人虐殺に関しては、そのドキュメントを文書の記録や体験者の言葉を基に残そうとする努力が重ねられてきたことも忘れられてはならない。

その一つを、8月20日に北九州市の枝光本町商店街アイアンシアターで開催された「百年芸能祭──鉄の町にて」で見ることができた。その冒頭で、呉充功監督のドキュメンタリー映画『隠された爪跡』(1983年)が上映された。それは関東大震災時の朝鮮人虐殺の犠牲者が荒川の河川敷に埋められていることをめぐる証言を集め、犠牲者の遺骨の試掘が行なわれる様子を記録した映画である。一時間ほどの作品だが、非常に粘り強く作られている印象を受けた。虐殺の体験者の証言を丹念に引き出すとともに、それを一つひとつ歴史的な記録と結びつけていこうとする制作の姿勢が映像から伝わってきた。

何よりも、今は聴くことのできない虐殺の体験者の言葉が、その身体から絞り出される様子が映し出されるのに引き込まれた。映画には、虐殺をかろうじて生き延びた者と、虐殺する側にいた者との出会いも記録されていた。枝光での「百年芸能祭」では映画の上映に続き、体験者をはじめとする当時の人々の言葉から東京での虐殺を浮き彫りにした加藤直樹の九月、東京の路上で』(ころから、2014年)の朗読が行なわれた。「1923年関東大震災 ジェノサイドの残響」という副題を持つこの作品に収められた当時の子どもを含む体験者の証言とそれに寄せた加藤の言葉を、たにせみきが一つの舞台に構成していた。

加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから)

巨大な災厄に巻き込まれた者の不安や虐殺を目にした者の恐怖に迫りながら、百年前の九月の情景を開く谷本仰のヴァイオリンに乗って、虐殺の証言が声として響くのに耳を澄ました。その声を通して百年前の路上の出来事を想像するとは、今回の「百年芸能祭」の最後に演じられた朴康秀の力強いタルチュム(仮面劇)が語りかけていたように、憎悪の対象にされ、そして百年前には虐殺の犠牲になった一人ひとりの名と生に思いを寄せることでもある。それを貫くのは、歴史の否定と結びつきながら押し寄せ、「普通」の「日本人」と異なる背景を持つ人々を恐怖に陥れている「ヘイト」の波への抵抗にほかならない。

「百年芸能祭」では、鄭正淑によるサルプリ(祈願舞)も披露された。その寄せては返すような動きは、死者の記憶を甦らせながら、その魂の浄化を祈願するように見えた。その舞いは、過去をふり返るように力を溜めては、水の流れのように広がっていく。福岡アジア美術館の「水のアジア」展で見た比佐水音の日本画を貫く水の流れも、同じようなリズムを持っているのかもしれないと思った。それと心の波長を合わせながら、百年前の関東大震災に朝鮮人などの虐殺が続いた歴史を省み、その犠牲となった一人ひとりの魂とともに歩むことが、百年の九月を前に求められている。

第一次世界大戦の影の下で生まれた音楽と絵画に触れて

ロシアによるウクライナの侵略が始まってから三か月が経った。その間、戦争の終わりは見通しがたくなる一方である。戦闘が続くなか、市民の犠牲が積み重なっていることには胸を締めつけられる。ロシアの軍隊が民間施設のみならず、民間人の避難先をも攻撃の対象にし、捕らえた人々を恣意的に殺害していることは許容しがたい。その点を踏まえつつ、あらためて確かめなければならないのは、民間人であろうと、軍人であろうと、人は殺されてはならないことである。

人の子がこのようにして死ぬことがあってはならない。にもかかわらず、ウクライナの東部では、今も人が殺され続けている。それとともに、大切な人を戦争によって奪われた悲しみが、残された人々のなかに鬱積しているにちがいない。非命の死を強いられた者の嘆きもまた、草葉を揺らし続けているだろう。死者と生者双方の悲しみは、すでにウクライナの黒土に染みついてしまっているのではないだろうか。もはやけっして消し去ることのできないかたちで。

今、このことに思いを馳せ、各地への避難を余儀なくされた者を含む人々のなかに深く刻まれた傷に心を寄せることが、まず必要なのではないだろうか。戦争の継続──そのことを虚言で正当化するやり方は絶対に許せないが、その一方で、ある性を負っているがゆえに戦闘への動員が避けがたくなる体制にも恐怖を禁じえない──を訴える、あるいは来たるべき戦争に武器で備えようと訴える声に抗して。そして、他者の悲しみに心を開く契機をもたらすのは、やはり芸術であると思われる。

こうしたことを思ったのは、第一次世界大戦の影の下で生まれた芸術作品に触れる機会が続いたからだろう。この最初の世界戦争は、一つの世界を崩壊させ、軍人、民間人を問わず、その暴力に晒された人々のなかに癒やしがたい傷を残した。そのような戦争に、少なからぬ芸術家も将兵として加わっている。今年生誕150年を迎えるイギリスの作曲家、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズもその一人だった。彼はまず衛生兵として、後には砲兵隊を率いて前線に立っていた。

今から百年前(1922年1月16日)に初演されたヴォーン・ウィリアムズの三番目の交響曲、《田園交響曲》には、彼の戦争体験が刻印されているとされる。その音楽によって浮かび上がるのは、戦場になった北フランスの草原だと、作曲家は妻に語っていたという。また、第二楽章には、彼が駐屯先で耳にしていた軍隊ラッパの音が反響する。そのような交響曲を、5月19日に福岡サンパレスで開催された九州交響楽団第403回定期演奏会で聴くことができた。

これまでヴォーン・ウィリアムズの作品を演奏会で聴くことはほとんどなかったが、その音楽に実際に接してみると、響きの独特の透明感が印象的で、それが《田園交響曲》においては、風景の奥行きをもたらしているように思われる。また、そのなかに聖歌のそれを含めた、アルカイックにも聴こえる旋律が対位法的に繰り広げられるのも特徴的だ。この作曲家は、ブリテン島の聖歌の伝統に根差しながら、それを自身の歌の記憶とも接続させつつ音楽を紡いでいたのかもしれない。

《田園交響曲》の最初の楽章では、ゆらめくような旋律の層が霧のように立ちこめるなか、徐々に風景が広がっていくが、そこにはすでに戦場に斃れた者の嘆きがそよいでいるようにも感じられる。続く楽章でそれが噛みしめられるようにして深められるなか、トランペットのカデンツァ風の独奏が聞こえてくる。遠くから響き始めて、深い嘆息のようなフォルティッシモを導くその旋律は美しかった。前半の二楽章で、ヴァイオリンとヴィオラの独奏が澄んだ音色で奏でられたのも印象深い。

第三楽章で初めて、金管楽器群と打楽器群が素朴な歌とともに力強く鳴り響くが、そこにあるのは、生者と死者が共有する生への希求だろうか。その響きが風景のなかへ消え入った後、ソプラノのヴォカリーズが上階の客席の奥の方から聞こえてきた。その声の響きは、降り注ぐようでもあり、同時に会場全体に染み透っていくようでもあった。今回独唱を務めた半田美和子の深い発声によって鳴り響いた波打つような旋律線は、これまで響いてきたものすべてを凝縮していると思われた。

風のまにまに漂っていた嘆きが、戦場だった場所の土のなかに、あるいはそこを通過した身体の奥底にわだかまっていた悲しみが、ひと筋の歌へとすくい上げられている。そう感じさせる奥行きを具えた声で最終楽章のヴォカリーズが響いたことは、今回の《田園交響曲》の演奏において最も感銘深かった。それは曲の最後で、ヴァイオリンのハーモニーと響き合いながら、澄みきった祈りと化していた。この鎮魂の祈りをこそ、戦争を体験した作曲家は響かせたかったにちがいない。

今回の九州交響楽団の定期演奏会では、もう一曲、第一次世界大戦の影の下で生まれた作品が鳴り響いた。モーリス・ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲である。ヴォーン・ウィリアムズ同様、志願して兵役に就いたラヴェルが、戦争で負傷して右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインのために書いたこの単一楽章の協奏曲を貫くのは、魂の奥底からの、もしかすると怒りも交じった生への渇望だろう。そのことをあらためて感じさせる力強い演奏を聴くことができた。

何よりも目覚ましかったのがチェ・ヒョンロクの独奏で、左手一本で大編成の管弦楽の音響のなかにピアノの響きを屹立させながら、明晰さをけっして失うことがない。独奏のパートが絶えず奥行きを感じさせる構造として聞こえたのには驚かされた。ジャズの影響を感じさせるパッセージの冴えも見事だった。ラヴェルの協奏曲でも、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲でも、作品に尽くすオーケストラの姿勢が演奏を説得的なものにしていた。

ところで、第一次世界大戦の戦線には、ラヴェル以外にも数多くの芸術家が加わっている。例えば、エコール・ド・パリの画家の一人に数えられるモイーズ・キスリングは、志願して外国人部隊に加わっている。その一方で、彼の友人だったアメデオ・モディリアーニは、志願したものの、健康上の理由から兵役不適格とされた。そのおかげで、この短命の画家の芸術の最後の輝きがもたらされたことを、大阪中之島美術館の開館を記念して開催されているモディリアーニ展で実感させられた。

「愛と創作に捧げた35年」という副題が掲げられたこの展覧会のプロローグの一角には、バレエ・リュスの公演のポスターを含む、数多くのポスターが見られたが、その多くは第一次世界大戦における戦意高揚を目論んだものだった。モディリアーニが、どのような空気のなかで絵画を追究していたかが伝わってくる。なかでもアフリカの植民地出身者の部隊を描いた一枚は、この戦争がどのような意味で「総力戦」だったかを物語っていよう。そのことは画家の創作にも影を落としている。

世界大戦に先立つ時期、モディリアーニは、彫刻に取り組んでいた。彫刻を介して、独自の造形を目指していたと言うべきかもしれない。まだ有名とは言えなかったコンスタンティン・ブランクーシに教えを乞い、この彫刻家に導かれてアフリカの彫刻に出会っている。その代表作、《眠れるミューズ》も展示されていた会場を歩きながら、もしかするとアフリカの顔貌の造形は、後のモディリアーニの画風に大きな影響を与えたのかもしれない。

会場には、当時フランスの植民地だったコート・ディヴォワールの仮面が四枚架かっていたが、その凝縮された造形と静謐さは、何がモディリアーニに深い印象を残したかを想像させる。こうしたアフリカの造形とブランクーシの影響の下で研ぎ澄まされた立体的な造形の感覚が、新たな色彩の感覚と結びついて、新たな画面を構成するようになったのが、1916年の暮れにジャンヌ・エビュテルヌと出会ってからのモディリアーニの絵画の展開と言えるのではないだろうか。

そこには、戦火を避けるために、またジャンヌの療養のために、1918年の春から南フランスに移り住んだことも作用していよう。それからの作品では、以前より明るい色調の背景から、人の居ずまいがすっと浮き立っている。その形は、人間の顔立ちであることを越えて、一つの画面を他ではありえないかたちで構成していながら、まさにそれによってその人の唯一無二の存在を伝えている。そのようにして画家は、人間の顔貌を新たな絵画に結晶させていたのだ。

出品されていたなかで、このことが最も研ぎ澄まされたかたちで表われていたのが、《大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ》(1918年)だろう。今まさに物思いに沈もうとしている瞬間の彼女の姿が、情熱を内に秘めたものとして浮かび上がり、静止するこの作品と向き合うことができただけでも、展覧会場に足を運んだ甲斐があった。この作品に描かれるジャンヌの美しい顔立ちからは、ブランクーシの彫刻とアフリカの仮面の双方の影響が感じられる。

その顔の薄灰色に塗りこめられた瞳は、他ではありえない面差しの造形の構成要素である。モディリアーニの絵画は、誰よりも先んじてこのような造形に達していた。このとき、彼の生命は二年足らずしか残されていなかった。それでもなお、絵画に示される生命の輝きはかけがえがない。それは絶対に消されてはならなかった。そのことを思うと、今続いている戦争の惨さがあらためて痛感させられる。他の仕方で輝きえた生命は、一つとしてかき消されてはならなかったはずだ。

最初の世界大戦の影の下で生まれた音楽と絵画は、儚い人間の代えがたい命への深い慈しみに貫かれている。それは祈りでもある。モディリアーニにとってそれは愛だったのかもしれない。これにもとづいて形づくられた作品に触れるとき、命が一方的に断ち切られることの、それによってかけがえのない人を奪われることの悲しみがいっそう強く身に迫る。もう誰ひとり殺されてはならない。一人ひとりの自由と尊厳が恢復されるかたちで侵略戦争が一日も早く停まることを願ってやまない。

沖縄への旅

那覇空港の玄関には水槽がある。美ら海水族館で飼育されているチョウチョウウオやスズメダイの類い、あるいは大きなツバメウオといった南国の魚が、おそらくはこの水族館の宣伝も兼ねて展示されている。これらの魚が人工のサンゴ礁を泳ぎ回るのに見入っているうち、沖縄を初めて訪れた時のことが思い出された。両親に連れられて、当時開催されていた沖縄国際海洋博覧会を観に来たのだった。とはいえ、海洋博の象徴とも言うべき海上都市、アクアポリスと、それを彩ったテクノロジーの展示は、ほとんど印象に残っていない。

対照的に、美ら海水族館の前身に当たる、海洋博公園の海洋生物園のことはよく覚えている。巨大な水槽のなかに、サメやエイの類いをはじめ、大きな魚たちが悠々と泳いでいた。その先に魚たちの世界が無限に続くようだった。コバルトスズメをはじめ南洋の原色の魚たちがサンゴ礁で日光を受けて光り輝くのにも、時を忘れて見入っていた。海洋博は二日をかけて見て回ったと記憶しているが、両日ともこの水族館でかなりの時間を過ごした。両親は根負けしたのだろう。就学前の子どもは、図鑑で知っていた魚が泳ぐ姿を見られて満足していた。

小禄のバス停にて

この時、海洋博の会場以外に首里城の跡へも行った。守礼の門だけがぽつんと残っていた。こうして家族旅行を楽しんだ一か月ほど前に、海洋博の視察を目的に沖縄を訪れた皇族夫妻に、ひめゆりの塔の前で火炎瓶などを投げつけた者がいたことを知ったのは、さらにその一月ほど前に沖縄米軍の嘉手納基地の第二ゲート前で焼身決起を遂げた、船本洲治のことを聞いた時だった。約十五年前のことである。その頃、沖縄を三十二年ぶりに訪れている。この時は空港から北へ向かうバスの車窓から、米軍基地のフェンスがどこまでも続くのに見入っていた。

1975年の7月17日に起きた、ひめゆりの塔の前での火炎瓶投擲事件の様子は、丸木位里と俊の夫妻が、一連の「沖縄戦の図」の一つで描いている。塔の傍らから地中に広がるガマのなかで、あるいはそこからの逃避行の過程で命を落とした「ひめゆり」の学徒たちは、どこか割り切れない表情でこちらを見つめている。その無念を一身に背負うかのように現われ、賓客として塔を訪れた二人を、何のために来たのかと問いただすように威嚇するハブの力強さが印象に残る。この蛇を描いたのは、戦前から繰り返し生き物を描いてきた位里ではないだろうか。

佐喜眞美術館での「沖縄戦全十四部展」のフライヤー。会期は2月20日までに変更されている。

今回の沖縄への旅の目的は、この一枚を含む「沖縄戦の図」の全作品が佐喜眞美術館で展示されているのを見ることだった。この美術館が収蔵する全十四部が展示室に揃うのは、戦後七十五年の時以来だという。「沖縄戦の図」のそれぞれの作品については、2021年が生誕百二十年の節目だった丸木位里の他の作品の印象とともに、稿を改めて記すことにするが、実際に作品を前にして、画面を貫くうねりのような運動に引き込まれたことには、ここで触れておきたい。沖縄の地で、当地の人々との交流のなかで描かれた、聞き描きの連作とも言うべき「沖縄戦の図」に取り組むなかで、丸木夫妻は、沖縄の人々を戦争に巻き込んでいった、逃れがたい力を感じ取っていたにちがいない。

それはすでに1983年に描かれた《集団自決》において、家族を次々に死に追いやる禍々しい力として、人々が崩れ落ちていくような運動を形成しているが、その翌年に描かれた《沖縄戦の図》では、その運動とともに、ひたすら死へと駆り立てられ、同胞どうしが殺し合う様子が画面の左側に描かれている。そこに働く力は、1987年の《チビチリガマ》において、画面を貫くものとして造形されていると思われるが、《沖縄戦の図》でそれは、折り重なる死体が海を流れていく様子と組み合わさりながら、一つの渦をなしているかのようだ。

流れゆく死体は女性のそれに見える。海岸に追いつめられてみずから命を絶った「ひめゆり」の学徒も、そこに含まれているのかもしれない。彼女たちが戦争に巻き込まれていく過程は、ひめゆり平和祈念資料館に克明に描かれていた。この資料館と沖縄平和祈念公園がある糸満市を訪れるのは、今回が初めてである。小さい頃、文庫本より一回り大きいカラー刷りの沖縄の旅行ガイドが家にあった。両親が先に触れた家族旅行のために買い求めたのだろう。その南部戦跡の紹介のページには、頭蓋骨の並ぶガマの写真が含まれていて、恐怖と好奇心の入り交じった思いでそれを眺めていた。そこで紹介されていたひめゆりの塔などをようやく見られると思いながら、南へ向かうバスに揺られていた。

ひめゆりの塔

ひめゆり平和祈念資料館の展示が最近刷新されたことは聞いていた。以前の展示と比較できないのが残念だが、新しい展示は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒がどのような学校生活を送っていたかを詳しく描くところから始まっている。そのような導入は、一方では友達と挨拶を交わしながら、憧れを胸に校舎へ向かう生徒たちの姿を描いたエントランスの絵が象徴するように、若い訪問者に「ひめゆり」の生徒への親近感を持たせようとするものだろう。他方で、息苦しい状況のなかでも日々の楽しみを求めていた──教師のあだ名も紹介されていた──ことが伝わる学校生活の描写からは、野戦病院で傷病兵の看護を強いられることになる女生徒の多くが、それまでにどのようにして戦争に奉仕することを自明視する「軍国少女」にされていったかも伝わってくる。

そのことは「沖縄戦の図」のなかの《きゃん岬》に描かれる、海岸での痛ましい最期の伏線でもある。戦争が激しくなると、授業に軍事訓練が入り込むようになったことを紹介する展示は、丸木夫妻が絵のなかに浮かび上がらせた逃れがたい力に、生徒たちが徐々に巻き込まれていったことを伝えている。その結果、多くの生徒が死に追い込まれた。とりわけ日本軍の南部への退却後は、あらゆる方向から絶えず死に晒される苦境のなか、生徒が次々に犠牲になっているが、それにしても6月18日の「ひめゆり学徒隊」の解散命令後に起きた、19日のガマへの黄燐弾攻撃は痛ましい。

ひめゆりの塔の傍らからガマが広がる

このガマへの直接攻撃によって、生徒のあいだに最も多くの犠牲者が出たという。それが米兵が間近に迫っているにもかかわらず、降伏勧告に応じなかった結果であることを顧みるとき、ガマに潜んでいた人々のなかに、犠牲を強いる国家の論理がいかに深く染み込んでいたかを思わざるをえない。生きたい、光の下に出たいという声は上がらなかったのか。それとも、このような声は掻き消されてしまったのだろうか。ひめゆりの塔の下に広がる、その現場となったガマの一部は、資料館の内部から見ることができるが、その暗がりからは、今もただたならぬ気配が感じられる。ガマの岩肌には、そこで非命の死を遂げた人々の無念が染みついているにちがいない。1975年の夏、皇族夫妻に火炎瓶を投げつけようと、このガマに何日も潜んでいた者は、そこで何を感じていたのだろう。

今回沖縄県の平和祈念資料館も初めて訪れた。その展示では、沖縄戦に至る歴史が琉球処分から辿られ、沖縄戦とともにその後の苦難も浮き彫りにされている。全体的として沖縄戦を、日本の戦争の歴史のなかに位置づけながら克明に描き出そうとする方向性を示しているように見えた。沖縄の人々が多く移り住んだ南洋の島々での悲劇、沖縄での強制集団死や軍人による住民虐殺が、複数の資料を駆使して具体的に描き出されている点は、とくに印象的だった。1972年の「復帰」に至る戦後の歴史に関する展示も啓発的だったが、反復帰論の紹介にもう少し場を割いてほしいとも思った。今年沖縄は、復帰から半世紀を迎えるが、この「復帰」とは何だったのかが問われる出来事が続いている。

平和祈念公園から戦争で多くの人々が命を落とした海岸を望む

短い旅のあいだ、米軍基地での防疫体制の不備と、将兵ら軍関係者の外出を止められなかった日本政府の無為無策によって、沖縄県内で新型コロナウイルスの新たな変異種への感染が急速に広がっていた。その後、2022年1月23日を投開票日として行なわれた名護市長の選挙は、普天間基地の辺野古への移設問題に対して沈黙を守る現職市長の再選に終わったが、この結果と低い投票率からは、絶望に限りなく近いものすら感じられる。住民投票などで繰り返し示されてきた、辺野古への新基地建設に反対する意思は、政権によって絶えず踏みにじられてきた。こうして沖縄の人々の平和な暮らしが破壊され続けていることに対して、その外に住む選挙民は、否という意思を示すことはしなかった。これらに対する失望が積み重なっていることに思いを馳せないわけにはいかない。

今やその存在そのものが人命の危険であることが明らかになった──沖縄では米軍基地から排出される有機化学物質PFASによる水質汚染も深刻である──基地が、このまま沖縄に居座り続けることを拒否するとは、まず魚たちとジュゴンの棲む辺野古の海に、日本政府が土砂を投じ続ける愚挙を否定することであり、基地の新設によって日米の軍事的な協力関係が強化され、戦争に巻き込まれるのを拒否することである。それは同時に、二十数万の命を奪った沖縄戦に至るまでに人々のなかに埋め込まれた、犠牲の神話でしかない軍事の論理を、沖縄の歴史を省みることをつうじて斥けることでもある。こうして生を肯定する道筋を息苦しい状況のただなかに探ることが、今問われている。

今回の旅では、沖縄県立博物館・美術館で開催されていた特別展「琉球の横顔──描かれた『私』からの出発」も見ることができた。展示されていた藤田嗣治らの作品が象徴するように、沖縄の女性がオリエンタリズムの眼差しによって見られる対象であったことを顧みたうえで、その眼差しに含まれる差別や偏見──それをいち早く問題にした久志芙沙子の1932年の小説「片隅の悲哀」も紹介されていた──を自分自身のルーツから捉え返し、自分の横顔とそれを取り巻く世界を見つめることへ向かう美術の変遷が辿られていた。

沖縄からのハワイ移民をルーツに持つローラ・キナ、エミリー・ハナコ・モモハラの作品は、世代間で受け継がれる記憶を掘り下げるのに、写真という媒体の可能性を生かそうとしていた。ジョルジョーネの老婆の肖像にもとづく西村立子の自画像は強烈な印象を残した。琉画の復興を、独特の強度を持った画面で試みる喜屋武千恵の作品も興味深かった。周囲の世界から沖縄にいきる自分と照らし出そうとする石垣克子と遠藤薫の作品は、一見対照的ながら、いずれも歴史的な風景の批評的な認識を示している。とくに遠藤が提示するオブジェには、戦争が深く刻印されていた。那覇空港で、帰路のフライトの前にもう一度玄関の水槽を見ながら、こうした美術に示される、沖縄の地に生きることの深い肯定に呼応する回路──それは「日本」の脱構築を通過せざるをえない──を見いだすことが思考の課題の一つであることを思った。

糸満の漁港。海をのぞくと小魚がいた。近くの市場には、サトウキビを栽培する女性がその絞り汁を甘味に生かして営む温かい雰囲気のカフェがあった。

終わりの始まりへ

2021年1月22日、世界の51の国と地域の批准にもとづき、核兵器禁止条約(Treaty on Prohibition of Nuclear Weapons: TPNW)が発効しました。これは、核兵器の存在そのものを非人道的と規定し、その使用、保有、開発、実験などを禁止する国際条約です。2017年7月7日に国際連合本部で開かれた「核兵器の全面廃絶に向けた核兵器禁止のための法的拘束力のある文書を交渉する国連会議」で採択されたこの条約が、国際社会において効力を持つに至ったことは、まず人類の生存へ向けて歓迎されるべきと思います。そして、ここに至るまで各国の政府などに粘り強く働きかけてきた人々の努力にも、心から敬意を表わしたいと考えています。

原民喜の詩碑から広島の原爆ドームを望む(2020年8月5日撮影)

核兵器禁止条約の発効は、核兵器の歴史、ひいては核の歴史の終わりの始まりにならなければなりません。そのためには、条約の実効性を高めていく努力が不可欠です。そして、それに厳しい闘いが伴わざるをえないのも確かです。地球上には未だに、計算上は人類を何度も滅亡に追いやって余りある核弾頭が存在していますし、また核兵器開発のための核実験も繰り返されています。さらに、核兵器を保有する国々や、その「核の傘」の下で「安全保障」を得ていると自認している国々は、核兵器禁止条約に批准していません。そのような国々の代表者が条約に署名することがなければ、「核兵器禁止」が「核なき世界」を開く力を発揮することは困難でしょう。

「唯一の戦争被爆国」と名乗る日本も、核兵器禁止条約に未だ批准していない国の一つです。日本政府が「非核三原則」を掲げ、「戦争被爆」が繰り返されてはならないという立場にあるのならば、真っ先に条約に批准し、核保有国の政府の代表者に、核を手放して条約に署名するよう働きかけるのが筋であるはずですが、アメリカの「核の傘」にしがみつき、条約を「現実的ではない」などと言い募りながら、批准を拒み続けています。条約の前文には、これが広島と長崎の「ヒバクシャ」の苦悩を踏まえてまとめられたことが明記されています。そのような条約に背を向ける政府の態度は、原子爆弾の犠牲者に対して説明のつかないものと言わざるをえません。

「核なき世界」を望む世界の人々も、日本が核兵器禁止条約に批准しないことに失望しているでしょう。この条約には、核保有国による核実験の被害を受けている地域の国々も数多く参加しています。条約に批准しないことは、そうした国々の人々の願いを無視し、これらの政府との核兵器廃絶へ向けた連帯の回路をみずから閉ざしてしまうことを意味します。そのほうがよほど非現実的ではないでしょうか。このように、幾重もの意味で恥ずべき日本政府の姿勢を糺すためには、何よりもまず、ここに至った国家の歴史を、その国民であることに同調するのとは別の視点から見返す必要があります。このような視点に立たせてくれるのは、核の犠牲になった一人ひとりの記憶です。

広島で被爆し、生き残った経験を語り続け、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)とともに核兵器禁止条約の採択へ向けた国際的な世論の形成に貢献したサーロー節子さんは、ノーベル平和賞授賞式でのスピーチのなかで、広島と長崎で被爆し、命を落とした犠牲者それぞれに名があり、それぞれの生涯があったことに注意を促していました。そのような一人ひとりの犠牲者の名を呼び、その生と死に思いを馳せるならば、まず原爆が生そのものを破壊するものであることを、あらためて知ることになるでしょう。同時に、総力戦としての戦争に巻き込まれるなか、被害者であることと加害者であることが複雑に絡み合った生きざまにも向き合わざるをえません。

そのような生の記憶の物語を紡ぎ、複数の物語を結び合わせることによって、戦争のなかで原爆に遭うことに迫るとともに、そこに至る過程に絡む暴力を細やかに分節化しながら問うならば、広島と長崎の人々の記憶を、今も軍隊の暴力に苦しんでいる沖縄の人々の記憶や、核開発の被害に苦しむ福島の人々の記憶と結びつけ、照らし合わせる回路が開かれるでしょう。そして、戦争の過程で原爆に遭うことに内在する問題がけっして過去のものではないことにも気づかざるをえないでしょう。これらをつうじて、戦争も原爆も過ぎ去っていない現在を、「唯一の戦争被爆国」の神話の覆いを引き剝がして照らし出すとき、現在の日本政府の姿勢を問いうる位置に立ちうるはずです。

核兵器禁止条約への対応に関しては、政府が署名するか否かよりも、署名しようとしない態度が何にもとづいているかを糺すことのほうが重要と思われます。あらゆる行政的な手続きは、戦争放棄と生存権をはじめとする基本的人権の尊重を謳った現憲法に則って行なわれなければならないはずですが、現在の政府は、戦争で使われる兵器の配備も、生命体の組成を根幹から破壊する核の使用も、結局のところ否定していません。アメリカから高価な武器を購入し、沖縄の人々の声を無視して、辺野古などへの基地建設を強行しようとしていますし、また福島第一原子力発電所の事故の被害が拡がり続けていることを隠蔽しながら、各地の原発の再稼働を進めています。

こうしたことのために使われた莫大な費用は本来、列島に生きる人々がパンデミック状況を生き延びるための費用に充てられるべきでしょう。しかし、現在の政府にはそのような予算編成の余地はないようです。それを動かす人々にとっては、列島で生活する人々の生の安寧よりも国家の「安全保障」のほうが重要であり、それに伴う利権の確保こそが政治の目的なのでしょう。そのために人々に犠牲を強いることに対し、何の疚しさも感じていないようですらあります。このような恥知らずの政治がこのまま続くことは、まさに破滅的です。そして、福島第一原発の過酷事故に至るまで、さらにはその後パンデミックのなかでも、破局は繰り返されてきました。

例えば水俣で破局に晒された人々のことを想起し、近代日本の破局の歴史を見返すこと。これが、核兵器禁止条約に署名しようとしない政府の姿勢を糺すことの内実である必要があります。その政治がまず終わらなければなりません。そうでなければ、たとえ条約が批准されたとしても、「核兵器禁止」に対する態度は欺瞞的なままでしょう。その欺瞞は、「復興」を謳いながら破局の傷痕を覆い隠した上に古代ローマのコロッセウムよろしく造られた建築物を使って、犠牲のスペクタクルを繰り広げることに、この期に及んでも執着しています。核兵器禁止へ向かう姿勢は、このような欺瞞の政治の終わりの先に、列島に生きる人々のものとして闘い取られるべきと思われます。

核兵器禁止条約が発効した二日前には、アメリカ合州国の新しい大統領が就任しました。その核問題と沖縄の軍事基地の問題への対応については、たしかに楽観はできません。しかし、前任者がワシントンを去ったことには象徴的な意義があります。その人物がウェブ上で繰り返し、議論が不可能になるまでに人々の分断を深めた欺瞞がまかり通るような政治の終わりの兆しを示しているからです。もうすぐ東日本大震災と福島第一原発の事故が起きてから十年になります。この節目を、原発の過酷事故を引き起こすに至り、その後も列島に生きる人々に犠牲を強いている政治の終わりの始まりにすること。これが破局の歴史を死者とともに生き延びるための出発点と考えています。

団地のラーメン

中学を出る頃までだったと思う。休日に家にいる親が一人のとき、昼食か夕食にラーメンを食べに出かけることが多かった。訪れる店は、郊外の高台の団地にあった家から歩いて行ける距離にあったが、父と行く店と母と行く店は別だった。とはいえ、いずれも鹿児島のラーメンの店である。カウンターに座ると、水と一緒に小皿に入った二、三切れの漬け物が出て来た。ラーメンは、どういうわけか一枚、二枚と数えられていた。もちろん、「一枚」でも丼に入って出て来る。醤油味の利いた豚骨のスープのなかに、少し太めの麺が漂っていた。スープには焦がしネギが浮いている。

そのようなラーメンの味は、舌に染み付いて離れなかった。高校を出て東京で暮らし始めてからも、「鹿児島ラーメン」の看板を掲げる店に吸い込まれるように入った。高円寺の店は、小さい頃、家族で与次郎が浜の植物園や遊園地へ行った後に入ることの多かった店と同じ名前だった。この店のラーメンの味付けが濃すぎると、母は不満をこぼしていた。子どもは楽しみにしていた。どちらかと言うと、「お子さまラーメン」に付いてくるプラスティックのおもちゃのほうを。父と通った近所のラーメン屋のスープは、この「ざぼんラーメン」に近い、少し塩辛い味付けだった。

ざぼんラーメンは、さまざまな意味で鹿児島のラーメンの典型を示している。

母がこの店を好まなかったのは、「海軍屋」という名前のせいもあったかもしれない。住んでいた団地にあったのは、同じ名前で市街地を中心に何軒か店を構えていたうちの一軒だった。白地に赤い文字の看板が、車中からも目を引く。タクシーなどの運転手を店で見かけることも多かった。亡くなった父は、そうした人たちにも受ける濃い味のラーメンを好んでいた。心なしか麺の量も多かったように思う。その頃食べ盛りだったので、丼の真ん中に乗ったキャベツ──これも鹿児島のラーメンの特徴の一つだ──の周りに、長方形のチャーシューが五、六枚並んでいるのが嬉しかった。

この店には、たしか二種類のラーメン定食があって、そのいずれかに千切りのキャベツのサラダが付いていた。それに半分に切ったゆで卵が乗っかっているのが嫌だった──今も黄身と白身が分かれたままの卵料理は苦手だ──が、それさえ我慢すれば、唐揚げにありつけた。餃子のニラとニンニクの刺激が強かったことも記憶している。これらを脂質が強いスープに入ったラーメンと白飯とともに平らげて、店を出る頃にはすっかり満腹になっていた。父は、ラーメンだけを注文して、丼の底が見えるくらいまでスープを飲んでいたが、そうした習慣が彼の健康を蝕んでいたかもしれない。

この「海軍屋ラーメン」について、ある意味でラーメン以上に印象に残っているのが、店主の男性である。中学生だった頃すでに年配に見えたこの角張った顔の店主は、いつも首を微妙にかしげながら、どす黒いタレを丼に注いでいた。その首の角度を保つことと、スープの味を決めることに必然的な関係があるかのように。東京へ出てから、古本を見て回るたびに訪れた神保町の天丼屋の料理人が、やはり少し首をかしげながら一定の量のタレを天ぷらに注ぐのを見るたび、あのラーメン屋の店主を思い出した。どちらの店もすでに暖簾を下ろしてしまった。

母と食べに行っていたラーメン屋は、少し遠いところにあった。団地の中央公園の先の住宅地の一角に、年配の女性がこぢんまりとした店を構えていた。店の名前は、団地の地名をそのまま取って「いしきラーメン」と云った。その店では、たしか麺以外はすべてその女性の手作りだった。彼女が母にそう言っていたのを聞いた覚えがある。ラーメンの前に出て来る漬け物はぬか漬けで、大根だけでなく、人参や胡瓜もあった。子どもの頃は、その匂いが少し苦手だった。ラーメンに、キャベツやネギだけでなく、かなりの量の木耳が入っていたことも覚えている。

この店のスープの味は独特だった。スープそのものは豚骨から取っていたようだったが、鰹節や椎茸などの出汁が利いていた。それ以外にもたくさんの種類の野菜の味が染み込んでいて、とてもまろやかだったが、中学生の頃はそれを物足りなく感じていた。その頃まだ、そのようなスープの重層性を味わう舌を持ち合わせていなかった。鹿児島のあの甘い醤油を利かせた味付けが、柔らかさをさらに強めていた。今にして思えば、複雑な味のスープと麺の絡み具合を玩味しておくべきだったのだろうが、思春期には包み込むような味わいに少し反発を覚えていた。

いつもというわけではなかったと思うが、ラーメンを食べ終えた後、店主の女性は、軽羹や羊羹の切れ端を出してくれた。漬け物が入るのと同じ小皿に入っていた。熱いお茶も出してくれた。すると、彼女と母の茶飲み話が始まるのだった。中学生の頃、それは家での長電話の延長のようで嫌だった。早く帰りたかった。しかし、それから三十年を経て、それが母にとってよい気分転換だったことが分かるようになった。同じ学区内とはいえ、家から少し離れていたことも、気兼ねなく話せる要因だったかもしれない。今はそのような話し相手のありがたさが身にしみて分かる。

先の見えない大学院生の頃だった。帰省中に父が急死した。それから四十九日を終えるまで、東京へ戻らずに、伊敷団地の家で残された家族と過ごした。そのような時期のある日、母と二人で「いしきラーメン」へ昼を食べに行った。その日も食後に、お茶と軽羹か何かが出てきた。店主とひとしきり話した母は、少し落ち着きを取り戻したように見えた。店主の女性は、その頃すでにかなりの年齢だったはずである。かくしゃくとしているように見えたが、その後どれくらい店を続けたのだろうか。こうしたことを、つい最近、ラーメンを食べながら思った。

広島駅前のデパートで開かれていた物産展に鹿児島ラーメンの店が出ていたので、休日に美術館を訪れるついでに、娘を連れて食べに行った。あの「いしきラーメン」ほどの複雑さはないものの、甘い醤油の味と鰹節の出汁が利いたまろやかな、それでいてコクのあるスープに、ほどよく麺が絡んでいた。かつての鹿児島のラーメンにはけっして見られない、大きなチャーシューも乗っていた。そのようなラーメンのスープを啜るうち、思春期まで団地で親と食べていたラーメンのことが思い出された。気がつくと、丼の底が見えるほど飲んでしまっていた。

飛沫を防ぐために設けられたビニールの仕切り越しに、隣で食べている娘に、どう、と訊いてみた。「むっちゃおいしい」という答えが返ってきて半分喜んでいた。いつになく多くスープを飲んでしまった味を共有してくれたのは嬉しかった。しかし、醤油が醸すその甘みに中毒性があることを知っているために、やや複雑な気持ちでもあった。それは舌に染み付くのだ。中東のナツメヤシによって醸し出されるお好みソースの甘みと同様に。焼酎によく合うことも知った甘い醤油の味に一抹の郷愁を覚えながら、それに搦め捕られたくないという思いも、思春期から持ち続けている。

歩行からの思考──ヴァルター・ベンヤミンの80回目の忌日によせて

「夜を歩み通すときに助けになるのは、橋でも翼でもなく、友の足音だけだということを噛みしめたところだ」。第一次世界大戦のさなかにヴァルター・ベンヤミンが当時の親友の一人に書き送ったこの言葉は、彼の思考の姿を浮かび上がらせている。ベンヤミンの思考は「夜を」、すなわち一つの世界を瓦解させたこの戦争とともに深まった時代の闇を「歩み通す」道を探っていた。彼はその道を、書として刻まれる言葉で切り開こうとしたのだ。彼は、そのために友の音信が欠かせないとも考えていた。六巻に及ぶ書簡全集に収められたベンヤミンの膨大な数の手紙は、このことを物語っている。

ポルボウの公共墓地から海を望む

幼年期の記憶を綴った「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」からも、ナポリやマルセイユといった都市の肖像を描くエッセイからも、ベンヤミンの足取りが伝わってくる。旅先から友人に送られた手紙は、彼の歩行の息遣いを響かせるかのようだ。彼の思考は、歩行とそれに含まれる身体的で、記憶の作用とも深く結びついた知覚のなかから、散文として紡ぎ出されていた。しかしその歩みも、1940年9月26日にポルボウで途絶する。このフランスとスペインの国境の街でベンヤミンが自死を遂げてから、今年でちょうど80年が経つ。その節目に、彼の闇のなかの歩行を跡づける意義があらためて検討されるべきだろう。

最期のメッセージが刻まれた墓地内のモニュメント

「出口のない状況に置かれ、けりをつけるほかなくなってしまった。私が生を終えようとしているのは、誰ひとり私を知る者がいない、ピレネー山脈の小さな村だ」。致死量を超えるモルヒネを嚥んだベンヤミンは、ニューヨークにいる友人のテーオドア・W・アドルノにこう伝えるよう同行者に頼んで48年の生涯を閉じた。死の経緯に関しては、未だ不明な点が残っているが、ベンヤミンが徒歩でピレネーを越え、ポルボウの先へ歩みを進めようとしていたことと、行路を断たれた彼が他殺──フランスへの強制送還は抹殺を意味していた──を拒んだことは、重く受け止める必要があると思われる。

こうしたことに触れた拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書)では、ベンヤミンの思考そのものを歩くという経験から検討することは、充分にはできなかった。本書ではどちらかと言うと、彼の思考の批評的な性格を、主要著作にそくして描き出すことに力点を置いたわけだが、その刊行から一年を経て、彼の思考を歩行からの思考として浮き彫りにすることの重要性を感じている。それによって、彼の思考とアドルノのそれとの差異が明確になるだろう。また、森のなかの杣径を歩むことからのマルティン・ハイデガーの思考との差異も、踏み込んだかたちで検討されうるにちがいない。

ベンヤミンの歩行からの思考について一つ言えるのは、その歩行が近代の歴史が積み重なった空間──それは都市であるほかないだろう──の内部を歩み抜こうとするものだということである。「歴史の概念について」のテーゼの一つが描く「歴史の天使」の姿が示すように、ベンヤミンは近代の「進歩」の過程に不断の破局があることを見抜いていた。それによって生じた瓦礫の山を掻き分けて生存の道を探るとは、破局の犠牲になった者のことを想起しながら、生き残りであることを省みることでもある。廃墟を歩むとき、破局の傷痕に、歴史によって抹殺された死者の記憶が刻まれているのに行き当たらざるをえない。

「文化財なるものは、同時に野蛮の記録であることなしに、文化の記録であることはありえない」というベンヤミンの言葉が刻まれた墓地内の碑

このことへの洞察が、ベンヤミンの絶筆とも言うべき「歴史の概念について」の一連のテーゼに結晶しているわけだが、それはファシズムによって生ある者の命が総力戦へ駆り出され、死者の記憶もその美化のために簒奪されていく流れを食い止め、死者とともに生きることに踏みとどまることへ向けて書かれている。このことは、新自由主義によって生命が使い捨てられ続けている今、噛みしめられるべきだろう。そして、一連のテーゼを貫くベンヤミンの歴史哲学が、彼の初期からの言語哲学の展開を示すものであることも忘れられてはならないはずだ。彼は、歴史が言葉であることへも問いを差し向けていた。

ここでベンヤミンの言語哲学を振り返るなら、そこにも歩行からの思考を見届けることができる。彼は第一次世界大戦中に書かれた「言語一般および人間の言語について」のなかで、言語は、翻訳とともに言葉となって語り出されるという認識を示している。それゆえ発語とはそれ自体、異質なものの肯定であり、それに対する応答なのだ。そして、この応答を示すとともに言語そのものを形成する翻訳について、「変容の連続を踏破する」と述べている。ベンヤミンは、言葉を発することを歩行から考えている。しかも、他者たちのあいだを進むこの歩行は、絶えざる自己の創造を示すものでもある。

とはいえ、そのような発語の歩みも、近代の時空間においては、歴史的かつ政治的な虚構としての「母語」に閉じこめられたところから始められるほかはない。そのことを踏まえたうえで、「変容の連続を踏破する」歩みの出発点を他言語で書かれた詩的作品の翻訳のうちに探るのが、「翻訳者の課題」である。そのなかでベンヤミンは、原作の言葉を字句通りに翻訳することによってこそ、他の言語と行き交うなかで言葉が形づくられる「アーケード」が開かれると述べている。しかも、この言語の生成の回路は、「母語」という「朽ちた柵」を破壊することによって切り開かれるという。

異質な言語で語られた言葉に細やかに応えながら、「われわれの」言語を内側から揺さぶること。それによって、一つの言語の未聞の響きが、他者の言葉との照応のうちに聴き出されるだろう。多和田葉子は、このことに文学の可能性が懸かっていると述べていた。もしかするとベンヤミンは、この未聞の響きのうちに、聖書で言われる天使の異言を聞いていたかもしれない。彼はさらに、天使の像に結晶する言語についての思考をつうじて、言語を経験の媒体としても捉え返そうとしていた。そのような思考の消息は、初期の言語論の翌年に書かれた「来たるべき哲学のプログラムについて」などに示されている。

パリのパサージュ

ただし、青年運動に参与していた時期からのベンヤミンの著述が一貫して示しているのは、彼が経験を、「経験」と呼ばれてきたものが虚妄と化し、何かを経験すること自体が不可能になった──要するに他律的な情報の消費のみがある──時代においてなおも可能な経験として追求していたことである。この経験を、経験の喪失に関する彼の思考に早い時期から関心を寄せてきた藤田省三の言葉を借りて、「最後の経験」と呼ぶこともできよう。未完に終わった『パサージュ論』のための覚え書きの一つを見ると、ベンヤミンがその経験を「閾の経験」として考えようとしていたことも伝わってくる。

そこでは、この経験が通過儀礼とも結びつけられている。そう考えるなら、何かを経験するとは、死の危険を潜り抜けて生まれ変わることでもある。では、何に生まれ変わるのか。「歴史の概念について」のテーゼの一つが示しているのは、近代の歴史が積み重なった時空間に生きる者が、この歴史に名を残せなかった者の記憶に触れるとともに、意図せぬ仕方で生じる想起を一つの経験にするなかで、この「過去とともにする唯一無二の経験を呈示する」言葉に生まれ変わりうることである。ベンヤミンは、想起の経験の媒体をなす言葉を「像」と呼んで、その配置から歴史叙述を考えようと試みている。

「称賛された、名のある者たちの記憶に敬意を払うよりも、名もなき者たちの記憶を敬うことのほうが難しい。名もなき者たちの記憶にこそ、歴史の構成は捧げられている」。ダニ・カラヴァンの《パサージュ》

このことはまず、近代の歴史の廃墟としての都市空間を歩む身体的経験から、歴史そのものを捉え直そうとすることである。そこでの歩行は断続的なリズムを示す。「進歩」の傷をさらけ出す瓦礫に行き当たるたびに、立ち止まらざるをえない。そして、それを拾い上げるとともに想起が喚起される。この想起を経験するとは、同時にこれまで「歴史」とされてきた物語に依拠する自己の死を潜り抜けることでもある。今、この神話が抑圧してきた記憶に触れているのだ。それを言葉のうちに呼び覚ますとき、「歴史」の物語によって抹殺された「名もなき者たち」に出会うことができる。

想起するとは、その地点から「歴史」の総体を見返すことでもある。その経験の媒体をなす「像」において歴史が語られると考えるなら、歴史そのものが、「抑圧された者たち」──破局にじかに晒され、不断に歴史の断絶に直面せざるをえなかった死者である──の側から非連続的に、過去との緊張関係において語り出されるものへ反転する。このことをベンヤミンは、「歴史観のコペルニクス的転回」と呼んで、革命へ向けて考えていた。ここで革命とは、今も死者と生者双方の破滅へ突き進んでいる神話──そこには「原子力」や「五輪」の神話が含まれよう──としての「歴史」を中断することである。

時系列を攪乱しながら、この「現実の例外状態」を招来させる言葉。これが歴史を語る。歴史の断絶の現場から神話の中断へ向けて語られるこの言葉は、抹殺された出来事を、これに巻き込まれた死者を、その名で今ここに呼び出すものなのである。このような、死者に呼応するなかで過去の「像」として形づくられる言葉を生きる者は、過去との断絶の上での出会いを経験している。そのことはけっして外から支配されることはない。今や歴史とは、手段化されえない生のための隙間を、瓦礫が積み重なっていくなかに言葉で切り開くことである。その隙間を、ベンヤミンは「瓦礫を縫う道」と呼んでいた。

このように考えるなら、ベンヤミンの歩行からの思考は、あくまで近代の破局が積み重なった時空間の内部に踏みとどまりながら、そこに刻まれた断絶──言語と言語のあいだの、あるいは過去との断絶──を、他者に応える言葉において経験する可能性を追求していたことになろう。彼によれば、他者とのあいだで自己を創造し続ける言語は、道具として扱われることはない。彼の思考は、死者でもある他者とともに、何者にも支配されることなく歩き続けるため道を、近代の歴史の廃墟のなかに、想起の経験を伝える歴史としても語り出される言葉によって切り開こうとしたのではないだろうか。

海からピレネーの山々を望む

ベンヤミンは、心臓の不調を抱えながら、自分の足でピレネーを越え、国境を潜り抜けようとした。彼はその試みの危険さをわが身で証明せざるをえなかったわけだが、そこに至るまでの間欠的なリズム──彼は10分ごとに休まなければならなかったという──の歩行のなかで、彼は自由な生への道筋を探り続けていた。それがポルボウで途絶してから80年を経た今、ベンヤミンの思考を歩行のなかから繰り広げられるものとして見つめ直し、それを貫く使い捨てられることのない生の追求を受け継ぐことが、彼が遺した書によって求められているのではないだろうか。さらに深まった時代の闇を「歩み通す」ために。

曝されながらともに生き延びるために

IMG_0017

最後に残った桜の花

世界保健機関(WHO)が2020年3月11日に、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が「パンデミック」であると宣してから50日が経とうとしています。「パンデミック」という言葉は、哲学者のマルクス・ガブリエルが、集英社新書編集部のウェブサイトに日本語訳が掲載された論考「コロナ危機──精神の毒にワクチンを」で述べているように、語源的には「すべての(パン)」と「民(デモス)」という二つの語から成っています。それゆえ「パンデミック」という複合語自体には、「すべての民に関わる」という意味しかないのですが、今日ではこの語はもっぱら、ある疫病が世界中の人々に関わる流行を示していることを指して用いられています。

こうした言葉の分析を俟つまでもなく、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)には、今やすべての人が曝されています。誰もがこれに感染しうるのです。できるのは、感染の危険を遠ざけると思われる手だてを講じることだけです。だからこそ、それぞれの住まいからできるだけ外に出ないこと、仕事をするにしても、在宅で働くことが推奨されているのです。しかし、そうして「ステイ・ホーム」を続けることが、住まいの外で働く人々によって支えられていることは、けっして忘れることができません。食品をはじめ生活に必要なものを運んでくれる人々や、それを店で販売する仕事に就いている人々なしには、「リモート」の仕事も、「ホーム」での生活も成り立ちません。

「ホーム」に留まっていても、病気になったり怪我をしたりします。それに、すでに病を抱えていたりなどして医療を絶えず必要とする人々もいます。こうした人々の生を支える医療、看護、介護の仕事を病院などの施設で、あるいはそれぞれの住まいを回りながら続けている医師や看護師、介護士がいます。誰もが新型コロナウイルスに感染しうるわけですが、もしその感染症が表われたら、これらの人々の助けなしに生き延びることはできません。にもかかわらず、医療や介護の現場に、それに従事する人々を感染から守るための物資が行き届いていない現状には心が痛みます。ビニール袋で仕切りや「防護服」を作り、フェイスガードも自作しなければならない状況下で、厳しい労働を続ける人々がいると聞きます。

それから、ゴミの収集など、生活環境の衛生状態を保つのに不可欠な仕事に従事している人々がいることも、忘れられてはなりません。もしそのような仕事が続けられなくなったら、住民全体の感染の危険が一気に高まることは言うまでもありません。このように、新種の、そして目に見えないウイルスにすべての人が曝された状況は、同時に人間が造った世界に、そしてそのなかの「ホーム」に住まう生存そのものが、住まいの外で働く多くの人々に支えられていることを露呈させました。しかも、この人々は今、相対的に大きな感染の危険に曝されています。さまざまな理由から、自分を護る住まいを持つことができない人々がいることも、忘れられてはならないはずです。

WHOは、新型コロナウイルス感染症が「パンデミック」化するなかで、「インフォデミック」の流行も世界的に拡がっていると指摘し、注意を呼びかけています。「インフォデミック」は、疫病が拡がるなかで、大量の、多くは根拠のない情報が氾濫するなか、パニック的な行動のようなかたちで、その影響が現実に表われることを指します。買い占めのような行動が、その典型的な症候ですが、スマートフォンなどの情報端末を介し、絶えずインターネット上の情報に接しているなか、世界中のほとんどすべての人がインフォデミックに巻き込まれていると言えるでしょう。そのような状況で、他者に対する攻撃性が剝き出しになっていることも、看過できないことです。

すでに欧米をはじめ世界各地で他者に対する攻撃性は、人種差別的なかたちで現われています。とくにアジア出身者が攻撃の対象になっていることには、胸が痛みます。それもさることながら、この列島においてとくに由々しいことと思われるのは、「何々人お断わり」のような外国人に対する差別的な言動が拡がりを見せ、ウイルスに感染した人々が攻撃の対象となり、さらには看護や介護の仕事に就いている人々や、運送の仕事に就いている人々のように、自分の生活を支えてくれている人々を、社会的に排除する言動が見られることです。どうしてこのような人々を深く傷つけるようなことができるのでしょう。そこには、防衛本能だけでは片づけられない、より根深い問題が表われているのではないでしょうか。

41cbey-9uml-_sx298_bo1204203200_この列島では、新たなウイルスに人々が曝されるなか、社会における差別と排除を可能にしてきた、ひいては関東大震災時に朝鮮人らの集団虐殺の要因でもあった他者観も、歴史的なものとして露呈しつつあります。それは、今なお列島に根を張っているのです。いわゆる「コロナ禍」は、「ニッポン」の地金を剝き出しにしたと言えるでしょう。そのことを前に、哲学者のテーオドア・W・アドルノが戦後に語った言葉を噛みしめる必要を感じています。「過去の出来事の原因が取り除かれた時初めて、過去は総括されたのだと言ってよいかもしれません。過去の出来事の原因が残り続けているからこそ、過去の呪縛は今日まで解かれることがなかったのです」(『自律への教育』中央公論新社、2011年、36頁)。

アドルノの友人ヴァルター・ベンヤミンの言葉を借りるなら、「歴史を逆なで」して捉え返し、「ニッポンジン」であることにこびりついたその地金を引き剝がずことなしには、「コロナ後」の社会はありえないとすら思えます。なぜなら、新種のウイルスに曝されるなかではっきりとしたのは、生存そのものが、幾重にも他者に依存していて、生き延びるためには助け合わなければならないという、それ自体としては当たり前の事実だからです。そして、「リモート」の仕事と「ステイ・ホーム」が、家の外で働く人々に依存しているとするならば、そのような人々の労働環境の安全と生活の保障こそが要求されなければならないはずです。にもかかわらず、そこへ攻撃性を振り向ける人々がいるのが現状です。

厄介なのは、関東大震災時の虐殺のときとまったく同様、攻撃的な行動がデマに対する脊髄反射と、それとともに高じるある種の「正義感」に起因していることです。「正義」を振りかざすところに正義はありません。そこに他者の排除のみがあることは、「正義の戦争」の歴史が物語っています。とはいえ見過ごしてはならないのは、「われわれの正義」を強く語ろうとする人々が、「戦争」の言説に容易に感染することです。権力者が発する「ウイルスとの戦い」のような空疎なスローガンに、いとも簡単に共鳴してしまうのです。何かとの「戦争」という言葉は、自己中心的な権力者の常套句です。それによって、権力の維持と利権の拡大のための行動に人々を動員し、「頑張る」という受忍を強いるのです。

この列島において、その「戦い」がある時点までは「オリンピック」なる巨大な「スポーツの祭典」を「予定通り」開催するためだったことも明らかになりつつあります。ちなみに、「コロナとの戦い」それ自体には勝ち目はありません。感染症の専門家が語っているように、最終的には、ウイルスとの居心地がよいとは言えない共棲の道を探るしかないでしょう。その条件を整えるために、「コロナ禍」に立ち向かうことは必要です。その際に直視しなければならないのは、この禍をその要因とともにもたらしているのが、現政権だということです。それが利権構造を「オリンピック」を実現させようとするほど拡大するのを、すでに七年にわたって許してしまいました。

WHOのテドロス事務局長がいわゆるパンデミック宣言を出したのが3月11日だったことは、この列島においては暗示的です。九年前のその日に起きた大震災とともに起きた福島第一原子力発電所の事故の後、水、土、そして空気の放射能汚染は止んでいません。現政権は、その危険から人間を含めた生きものたちを守るための施策には力を注ぐことなく、原発の再稼働を進めてきました。そのような、列島に暮らす者の安心立命ではなく、自分たちの利権を追求するやり方を糊塗するために、マスクの一件が象徴するように、杜撰な手口で「やってる感」を演出するわけです。しかも、利権のために。それに騙されて殺されることなく、ともに生き延びる道こそが探られなければならないはずです。

IMG_0018

力強い香りを放つジャスミン

ウイルスに等しく曝された、しかし感染の危険度において差異が生じてしまう状況を見据えながら、この列島でともに生き延びる道を探るためには、排他的な他者観を国民性と表裏一体のものとして形成した過程として、歴史を見つめ直すことがまず必要でしょう。それをつうじて、他者の生き方を想像する回路が開かれるはずです。そうして曝されてある弱さを労りあうことが、ともに生き延びることを可能にするのではないでしょうか。今は若葉を茂らせ、花を咲かせている生命の営みに目を凝らし、耳を澄ますことがその重要性に気づくきっかけになりうることを、ローザ・ルクセンブルクは、獄中から若い友人に語りかけていました。「鳥の歌声がいつも同じ調子にしか聞こえてこないというのは、無頓着な人間の粗雑な耳だけのことです」。

ポルボウへの旅

[2016年9月25/26日]

img_2414

ポルボウ駅風景

バルセロナを午後5時過ぎに出発した列車がポルボウの駅に着いたのは、午後8時過ぎだった。本来はもう少し早く着いているはずだったが、おそらくは一時間半ほど前から降り始めた激しい雷雨の影響で、到着が少し遅れた。幸い雷雨は収まっていたものの、プラットホームに降り立つと、駅舎の屋根に小雨がぱらつく音が聞こえる。寂れた駅舎を抜けると、潮の香りが漂ってきた。

ナチス・ドイツからの亡命者たちにピレネー越えを手引きしていたリーザ・フィトコに導かれたヴァルター・ベンヤミンが、同行者とともにこの入江の国境の街に辿り着いたのは、1940年9月25日のことだった。駐在する国境警察に、フランスの出国ヴィザを持たない者は送還すると脅された一行が、一夜の滞在を許されたホテルへ重い足取りで向かった時も、このように日が落ちて、街路が薄暗かったのだろうか。雨をよけながら細い街路を下って行くと、海辺にある今夜の宿が見えてきた。

ベンヤミンは、9月25日の深夜に、彼が万一の際に備えて持ち歩いていた致死量のモルヒネを嚥んだとされている。「そうするよりほかに術がなかった」。亡命先のアメリカにいるテオドーア・W・アドルノに伝えるよう、同行のへニー・グルラントに託した伝言にあるように、行く手を阻まれ、帰路も塞がれた状況で、ベンヤミンが取れる手だてはこれだけだった。彼は、ナチス・ドイツの占領下に置かれたフランスで、ゲシュタポの手にわが身が引き渡され、辱められた末になぶり殺されることだけは避けなければならなかった。案内人に「私個人の命よりも大切だ」と語った原稿を所持していたからである。

こうしてベンヤミンは、他殺の拒否を貫いた。彼は、言葉とともにある生を生き抜こうとして自死を遂げたと言えるかもしれない。混濁してゆく意識のなかで、彼は、大西洋の向こうにいる友人の手に、トランクのなかの原稿が渡ることを念じていただろう。しかし、その願いは叶わなかった。彼が所持していたとされる原稿の行方は、杳として知れない。深夜の海岸からは、波が打ち寄せる音が、風音とともに響いてくる。絶命しつつあるベンヤミンの耳にも、海からの音は届いていただろうか。

img_2378

ダニ・カラヴァンのモニュメント《いくつものパサージュ》とポルボウ公営墓地の門

先のアドルノへの伝言にあるとおり、ベンヤミンは、「自分のことを誰も知らない街」で死んだ。いや、それどころか、結局誰であるか知られないまま死んだとさえ言えるかもしれない。当地に残る記録によれば、彼はカトリックの司祭の終油を受けて、ポルボウの公共墓地に葬られた。その記録に彼の名は、“Benjamin Walter”と記されている。故意によってか手違いによってか、姓と名が取り違えられることによって、彼の名前からは、彼がユダヤ人であることを示す要素が消されていた──“Benjamin”は、イベリア半島では一般的なファースト・ネームであるという──のである。このようにしてベンヤミンは客死した。

img_2382

ベンヤミンの最後のメッセージを記した墓地内のモニュメント

海に面したポルボウの公共墓地には、もうベンヤミンの墓は残っていない。代わりにというわけではなかろうが、墓地の奥まった場所に、彼を記念する小さな石碑が設けられている。その手前には、ベンヤミンがグルラントに託した伝言の全文とされる文章が記されたモニュメントも造られていた。こちらは、彼の没後75年を記念して設置されたという。この場所を訪れたのは、翌9月26日の朝。墓地から見下ろす海が、もはやベンヤミンが見ることのなかった陽射しを受けて輝いていた。昨夜の雷雨が嘘だったかのように、空は晴れわたっている。

墓地のなかの記念碑には、彼の最後の著作の一つで、未定稿だけが残された「歴史の概念について」の第7テーゼの一節が引かれている。「同時に野蛮の記録であることのない文化の記録など、あったためしがない」。なぜこの一文が刻まれたのかは知る由もない。ただし、ここにベンヤミンの歴史に対する基本的な姿勢が示されていることは確かだろう。彼の思考は、現在を廃墟の相において見据えながら、「進歩」や「発展」と美化されてきた歴史のうちに、抑圧と破壊の痕跡を見届ける理路を探っていた。そして、この痕跡が顔をのぞかせる一瞬を捉え、同じテーゼに言われる「抑圧された者たち」の記憶を今に呼び覚まして、歴史そのものを反転させる可能性を、言葉に凝縮させようとしていたのだ。「歴史の概念について」書かれたテクストは、その試みの痕跡である。それが時の権力者たちにとってきわめて危険なものであったことは、細部の表現が変わっている異稿の存在が物語っていよう。

img_2386

墓地内の記念碑

公共墓地の門の手前に、イスラエルの芸術家ダニ・カラヴァンがベンヤミンの没後50年を記念して制作したモニュメントが設けられていることは、つとに知られていよう。海辺の崖を貫通するかたちで造られたこのモニュメントには、《いくつものパサージュ(Passages/Passatges)》という表題が付いているが、それはこのモニュメントの物理的な構成からすれば、逆説的なタイトルではある。なぜなら、その内部の階段を下りて行った先にあるのは海なのだから。ベンヤミンが旅人として、あるいは思想家として辿ってきたいくつもの、いや無数のパサージュ──アーケード、通路、隘路など──に思いを馳せながら、それがこの場所で途絶したことを追想する空間と言えようか。あるいは、この狭い空間を通り抜けることを、カラヴァンは、ベンヤミンが繰り返し論じた「経験」──とくに「閾の経験」──に準えているかもしれない。「経験(experience)」の語には、語源的に「危険(peril)」を潜り抜けるという意味がある。

img_2377

カラヴァンの《いくつものパサージュ》の内部から海を望む

モニュメントの内部に入り、階段を下って行くと、カラヴァンが制作した他のモニュメントにも見られるように、開口部の手前に透明の板が組み込まれていて、その上に言葉が刻まれている。その言葉は、《いくつものパサージュ》においては、ベンヤミンが「歴史の概念について」のテーゼを準備するために記した草稿から採られている。「名のある人々の記憶を称えるよりも、名もなき者の記憶を称えることのほうがいっそう難しい。歴史の構成は、名もなき者たちに捧げられている」。行き止まりでもあるカラヴァンの《パサージュ》に刻まれているのは、従来の「歴史」に名を残せなかった者たちに応えようとするベンヤミンの歴史哲学の基本的な問題意識を示しながら、その困難をも暗示する言葉である。その言葉が、ポルボウのモニュメントの空間の内部では、特別な力を持っているようにも感じられる。

カラヴァンが意図しなかったことかもしれないが、ベンヤミンの言葉が刻まれた透明の板には、見る者の姿が必ず映る。モニュメントの内部空間の写真を撮ると、カメラを手にする影が写り込むことになる。モニュメントのなかへ入る者は、海に向かいながらベンヤミンの言葉を読む自分の姿も同時に見ることになるのだ。それによって、ボードレール論における彼の言い方を用いるなら、「眼差しを返される」体験をすることになろう。それも、言葉によって。困難な「歴史の構成」を語るベンヤミンの言葉をここで読む者は、その言葉によって問い返される。この時代、この世界で、彼の歴史への問いをどのように受け止めるのか、と。

img_2409

ポルボウ公共墓地から地中海を望む

容易に手の届く史料を基に歴史を物語る──そのことは、ベンヤミンに言わせれば、支配者への同一化である──のではなく、「歴史」から削ぎ落とされ、抹殺されかねない記憶を忘却から掬い上げ、断片でしかありえないこの記憶を継ぎ合わせ、照らし合わせる「構成」は、どれほど困難であることか。しかし、それをつうじて、いくつもの「抑圧された者たち」の記憶を星座のように呼応させ、現在を新たに照らし出す可能性を追求することに、生存──それは死者とともに生き残っていくことである──そのものが懸かっている。だからこそベンヤミンは、「歴史の概念」を、「歴史」に抗して語ろうとした。そして、彼がそのなかに「嵐」を見た「歴史」は、今や彼の時代よりもさらに深く生命を侵食しながら、生存を脅かしている。そのような現在──核の歴史のただなかにある現在──において、歴史の問題にどう取り組むのか。モニュメントのなかで、ベンヤミンの言葉によってそう問われているように思われた。その際、ポルボウでの彼の死にも向き合わざるをえないのではないだろうか。

img_2336

ベンヤミンの眼鏡があしらわれたホテル・デ・フランシア跡の銘板

カラヴァンのモニュメントを後にし、ポルボウの街を通って駅へ向かう途中、ベンヤミンがファシストの手先に見張られながら一夜を過ごし、自死を遂げたホテル・デ・フランシアのあった建物の壁面に、そのことに触れた銘板があるのを目にした。彼の特徴だった眼鏡があしらわれていた。それ以外にもポルボウの街の至るところに、ベンヤミンとその死に触れたプレートが置かれている。この街では、皮肉なことに、ベンヤミンの記憶は「文化財」と化しつつあるのかもしれない。それがやがて、「文化財」という名の消費財と化してしまうのに抗いながら、彼の思考の問いを喚起する力を掘り起こす必要を、あらためて感じないではいられない。そのことは、ベンヤミンの言葉を、今ここで読む者の責務であろう。

こうしたことを思いながら、午後のバルセロナ行きの列車に乗り込んでポルボウを後にした。ジローナ県の町々を通って行く車窓の外には、往路は見えなかったカタルーニャの田園風景が広がっていた。乾いた土に、強い陽射しが照りつけている。馬が草を食む姿がふと目に入った。牧草地の先には、葡萄畑がどこまでも広がっていた。

他者と応え合う言葉のダイナミズムへ

■他者と応え合う言葉のダイナミズムへ:言葉をめぐるいくつかの個人的な事柄から

言語とは何だろうか。私が普段話したり書いたりしている言葉とは、いったい何なのだろうか。

このように問うことができるのは、おそらく私にとって言語が、ほかの人々ほどに自明のものではないからだろう。言語が何ひとつ自明のものとして与えられていないなかで、言葉をめぐって悲しみと喜びが交錯し続けている。短調のなかに長調を、また長調のなかに短調をふと響かせるシューベルトの音楽のように。

たしかに言葉を聴く、あるいは語る喜びも時折訪れる。しかし、最初にあるのはいつも言葉への悲しみである。まず、私には「私のもの」と言えるような言語がない。鹿児島に生まれた私は、そこで人々が話していた鹿児島訛りの日本語を受け容れることができなかった。私に「マッチョ」さを押しつけようとする当地の気風を嫌悪していたことも多分にあるのだろう。引きこもり気味だった幼い私は、そのかわりに活字となった、あるいはテレビやラジオから聞こえてくる言葉を覚えたのだった。そのことは後に東京へ出て来たとき、その言語環境に最初に馴染むのに多いに役に立ったし、また馴染んでいるらしいことにひそかに優越感を抱いたりもしたのだけれども、自分が覚えてきた言葉が実は東京の言葉でもないことに気づくのにさほど時間はかからなかった。私が話している言葉は、どこの言葉でもない。私はいかなる言語にも住んでいない。そのことは、広島に住み始めて四年目になる今でも何ひとつ変わらない。

私が話し、書く言葉、それはどこにも属さない。だが、その一つひとつは結局どこかからの借り物でしかない。みずからの住み処をもたなければ、真にオリジナルなものであることもない。このような私の、でも私のものではない言語の癒えることのない傷、これがおそらくは言葉への悲しみの源であり続けているのだろう。そのうえ借り物の継ぎはぎにすぎない私の言葉は、やはり他者に伝わらないことが多い。そのことは悲しみをさらに増幅させる。にもかかわらず、考えていることを言葉にしたい、という欲望は止むことがない。ジャック・デリダが述べていたように、ある意味で失語症だからこそ、私は新たに何かを語ろうとするのかもしれない。そして失語のなかから、瓦礫を継ぎ合わせるようにして語り出された言葉が伝わったのがわかる、つまり他者の言葉と響きあっているのが聴こえることの喜びは、やはり何ものにも代えがたいと言わなければならない。しかし、その喜びもやがて悲しみに変わる。他者は私の言葉を、私が望む響きで聴いてはいないし、そもそも私は望みどおりの響きなど一度も響かせることができていないのだ。

おそらくは、このような言葉をめぐる喜びと悲しみの交錯が今、私を言葉への問いへと駆り立てている。自分がけっしてなり代わることのできない他者とのあいだで語り交わされ、ときに他者の言葉と響きあい、またときに他者の言葉とぶつかり合う言語、それはいったい何なのだろう。言語というもののどのようなありかたにもとづいて、一つの言語が新たに世界のなかへ語り出されて、けっして同じ立場に立つことができないし、それゆえ同じ痛みを感ずることもできない他者と応え合うという、奇跡とも見える出来事が起きるのだろうか。そのような出来事をくぐり抜けてきた経験にもとづいて、今言語についてもし言えることがあるとすれば、それは、言語が根源的には、けっして同類たちのあいだの意思疎通の手段、すなわち「コミュニケーション・ツール」ではない、ということである。自分と深淵によって隔てられた他者とのあいだで言葉を交わし、響きあわせて理解し合うこともここで仮にコミュニケーションに含めるなら、言語はむしろコミュニケーションのための手段である以前に、その回路を最初に切り開くかたちでつねに新たに形づくられてくるのではないか。だからこそヴァルター・ベンヤミンは、言語は本質的に、一定の情報ではなく、コミュニケーションの可能性そのものを他者に伝える、とさえ述べているのではないだろうか。最初にあるのは、他者への呼びかけであり、それはすでにして他者がそこにいることに対する応答なのである。

そのように言語についての問題意識が深まるなか、私は越境する作家たちのことを知った。自分の「母語」を越える経験をしながら書き続ける作家たち、たとえば母語ではない日本語を創作の言語とするリービ英雄、あるいはドイツ語の歴史に参与しているという自負をもってドイツ語でも作品を発表し続けている多和田葉子。これらの作家たちは、自分が最初に身につけた言語を越えながら、さらにはすでにある「日本語」や「ドイツ語」をもつねに越えゆくかたちで、みずからの創作の言語を形づくっていよう。そしてそうしてつくられた言葉が読まれていることは、越境しながら生成を続ける言語こそが普遍的でありうることとともに、いかなる共通の地盤ももたない他者とのあいだで、「母語」を越えて言葉を交わしあうことの可能性を指し示しているはずである。

もちろん、これら二人の作家たち以前にも「母語」を越えて書き続けた文学者はいた。たとえば、今はウクライナのチェルノヴィッツでユダヤ系の家庭に生まれ、いくつもの言語を身につけながら、自分の家族をはじめ親しい人々を抹殺したドイツ人の言語であえて詩を書き続けた詩人パウル・ツェラン。「アウシュヴィッツの後で」の詩の不可能性と対峙しながら、口ごもりつつ、沈黙のなかへ消え入るわずかに手前のところで死者たちの沈黙と拮抗しようとするかのような彼の詩の言葉は、ドイツ語のなかにそれを見つめなおさせる異質な石の響きを紛れ込ませるとともに、ドイツ語で語る人々に、さらにはそれ以外の人々にも、言葉を語ることの可能性を、その不可能性とともに問い直させるきっかけを、今なおもたらし続けているのである。

こうしたツェランの詩の言葉の一つひとつは、沈黙のなかから響いてくる。そのことはまず、言葉というものがつねに沈黙のなかから、沈黙に抗するかたちで、しかも沈黙を陰翳としながら語り出されてくることを思い起こさせる。新たに何ごとかを語ろうとする者は、沈黙のなかで言葉を探らなければならない。そしてそれを沈黙のなかから響き出させるとき、一つの新しい言語が世界のうちに生成している。まさにこのことを、すでに自明のものとして与えられている特定の言語を道具として使いこなすことだけを見ながら言語について考える者は、見すごしているのである。何かを言葉にしようとするなかで、一つひとつの言語は、沈黙のなかから新たに形づくられてくる。しかも、そのとき言語は、ある自分が語ろうとする前に、言わばおのずと語り出されてくるのだ。

そのことを指してベンヤミンは、言語は「媒体」であると述べているのだろう。言語とは、根源的には情報伝達と意思疎通の「手段」ではない。そうした手段として機能する以前に言語は、自己へと沈潜しながら自己自身を新たに形づくり、他者へ向けて自己を打ち明ける媒体である。そして、そのような生成のなかでこそ、一つの言葉は、新たに何ごとかを言い表わす一つの表現のメディアでもありうるのだ。にもかかわらず、「日本人」なるもののアイデンティティの拠り所として、「正しい日本語」という実体があるかのように主張する言説が、「日本語ブーム」が去りつつある今でも後を絶たない。そのようにして一個の統一体として「日本語」を仮構することは、言語の生成の運動を圧殺し、それとともに言葉を話す自分自身を、権力による動員の対象ともなりうるような仕方である一つの、他者と応え合うことのないアイデンティティのうちに囲い込むことでしかないはずだ。むろん、そうする者にとっては、言葉もそれを語る自分も閉じ込められていたほうが「ふつう」で「安心」なのかもしれないけれども。

ところで、かつて「〈沈黙〉と測り合えるほどに強く少ない音」を追い求めていた作曲家武満徹は、そうした音の前に「充実した沈黙」がなければならないとも語っている。「充実した沈黙」、そのなかではけっして音声に解消できない他者の沈黙と、それを前にして言葉をいったん失いながらそれに耳を傾けることの沈黙とがせめぎ合っていることだろう。そのただなかから沈黙を破る言葉、それだけが、自分が今ここにいることを証明する。武満は、そのような言葉を、そして──ここで言語を、狭義の「言語」だけにかぎられないものと考えるなら──新しい音楽という彼の言語を、生涯にわたって追い求めていたのだろう。「沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外のなんでもない。沈黙の坑道から己れをつかみ出すことだけが〈歌〉と呼べよう」。そして、その歌のうちに武満という作曲家がいるとするなら、ほかならぬこの「自分」というものも、沈黙のなかから一つの言葉を語り出すことのうちにしかないのかもしれない。

私が今その思想と向きあっているベンヤミンは、沈黙のなかから沈黙に抗ってかたちづくられ、今ここの自分の存在を証明するかたちで語り出される「媒体」としての言語とは、本質的に「名」であるとも述べている。「名」、それは一般的な「名詞」ではない。彼が「名」ということで考えているのは、名づける行為であり、さらに言えば、ある何か、あるいは誰かそれ自身を命名しようとする言葉が生成してくる動き──その最も純粋なかたちは、ベンヤミンによれば神の創造と重なりあう──そのものである。例えば、ある誰かの名を呼ぶとき、私はまだいかなる情報も伝えていない。自分がけっして立つことのできないそこに他者がいることを肯定しながら、自分がここにいることだけを伝えようとしているのだ。そうして私は、未だ開かれていない、他者と応え合う回路を、他者とのあいだに開こうとしているのである。ベンヤミンが言語は本質的に「名」であると述べるとき、彼は、沈黙のなかから新たに語り出されてくる言葉が、自分とは異他なるものの存在を肯定し、それに応える自分を差し出すと同時に、自分とその異他なるもののあいだに一つの回路を新たに切り開こうとしているのを暗示しているのではないか。武満にとって一つの歌ですらあるような言葉の響きは、ここにいる自分とそこにいる他者のあいだを開くのではないだろうか。

さらにベンヤミンによれば、この地上において名づけるはたらきは、他者からの語りかけを受け容れ、聴き届けることをつうじてのみ発動する。しかも、その語りかけにはつねに、音声に解消できない異質さが、こちらの言葉を失わせるような沈黙が含まれているという。それを受けとめながら、一つの言葉を他者の言葉から聴き出すこと、それが今ここで、神からすれば一つの儚い被造物であるこの私が言葉を語ることの始まりにあるのだ。そして、そのことが一つの言語を生成させるのである。そして、このように受動的かつ能動的に他者に応答する言葉をかたちづくることを、ベンヤミンは「翻訳」と呼んでいる。二つの言語体系を前提するのではなく、一つの言語を発見しながら、それと異なったもう一つの言語を生成させるような翻訳、これが言葉を語ることの核心をなしているのだ。とすれば、この翻訳は、他者と応え合う言葉として生成する言語のダイナミズムの原動力とも言えよう。言語それ自体を彼のいう意味での翻訳の活動として見つめなおすなら、私が普段話し、書いている言葉を、深淵によって隔てられた他者とのあいだで他者の言葉と応え合い、響き合い、ときにぶつかり合いながら生成を続けるものとして捉え返すことができるのでは、と現時点では考えている。

もちろん、そうした他者とのあいだで発動する言語のダイナミズムは、それぞれの言語が共同体の「母語」ないし「国語」の体系として整備され、同類のあいだの「コミュニケーション・ツール」として対立しあうバベル以後の、そしてとりわけ近代以降の世界では覆い隠されていよう。しかし、ベンヤミンによれば、このバベル以後の世界の内部でも、他者の言葉の異質さに直面するとき、すなわち他者がまさに「他」であることが突きつけられるときに、自分の「母語」を突き抜けてでも他者の言葉の異質さに開かれるなら、そうして他者の言葉をもう一つの言葉で聴き届けるなら、「媒体」としての言語のダイナミズムを再び活性化させることができる。つまり、自分がすでに身につけた一つの言語に揺さぶりをかけながら自分の言葉を他者に応答する言葉として見いだすような翻訳の実践をつうじて、もう一つの言語が生成するのである。

とはいえ、そのように言語を再生させようとするときにも、私は借り物の言葉を語るほかはない。私は言語を無から創造することはできない。とりわけ狭義の言語を語るとき、私は世界のうちに散らばっている、他者たちがすでに語った言葉たちを拾い集めてくるほかはない。そうして借り物を継ぎ合わせることは、たしかに先に触れたような悲しみをもたらす。私の言葉は、私の望む響きから遠ざかってゆくし、それとともに不透明な物質性を帯びた言葉は、いかようにも読みうる書きもののように他者の前に差し出されるのだ。そのことを前にして私は言い淀んでしまう。だが、私は借り物の言葉しか語ることができないのだ。とすれば、世界のなかで言語が書きものの物質性を帯びるほかはないことを、どのように引き受けることができるのだろう。あるいはそのことを、言葉の身体性としてどのように生かすことができるのだろうか。私は今こうした問題に取り組もうとしている。

言語とは何だろうか。私がふだん話したり書いたりしている言葉とは、いったい何なのだろうか。最初に掲げたこの問いを、私は、私が今ここで、そこにいる他者とのあいだで言葉を語り交わす可能性へ向けて問いかけようとしている。私は、言語そのものを問うことをつうじて、沈黙のなかから他者と応え合う言葉として生成するダイナミズムにおいて言語をとらえかえそうとする思考の歩みを──しばしば立ち止まりながら──進めつつあるところなのである。

[2005年7月11日]