ポルボウへの旅

[2016年9月25/26日]

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ポルボウ駅風景

バルセロナを午後5時過ぎに出発した列車がポルボウの駅に着いたのは、午後8時過ぎだった。本来はもう少し早く着いているはずだったが、おそらくは一時間半ほど前から降り始めた激しい雷雨の影響で、到着が少し遅れた。幸い雷雨は収まっていたものの、プラットホームに降り立つと、駅舎の屋根に小雨がぱらつく音が聞こえる。寂れた駅舎を抜けると、潮の香りが漂ってきた。

ナチス・ドイツからの亡命者たちにピレネー越えを手引きしていたリーザ・フィトコに導かれたヴァルター・ベンヤミンが、同行者とともにこの入江の国境の街に辿り着いたのは、76年前の今日、1940年9月25日のことだった。駐在する国境警察に、フランスの出国ヴィザを持たない者は送還すると脅された一行が、一夜の滞在を許されたホテルへ重い足取りで向かった時も、このように日が落ちて、街路が薄暗かったのだろうか。雨をよけながら細い街路を下って行くと、海辺にある今夜の宿が見えてきた。

この日の深夜に、ベンヤミンは、彼が万一の際に備えて持ち歩いていた致死量のモルヒネを嚥んだとされている。「そうするよりほかに術がなかった」。亡命先のアメリカにいるテオドーア・W・アドルノに伝えるよう、同行のへニー・グルラントに託した伝言にあるように、行く手を阻まれ、帰路も塞がれた状況で、ベンヤミンが取れる手だてはこれだけだった。彼は、ナチス・ドイツの占領下に置かれたフランスで、ゲシュタポの手にわが身が引き渡され、辱められた末になぶり殺されることだけは避けなければならなかった。案内人に「私個人の命よりも大切だ」と語った原稿を所持していたからである。

こうしてベンヤミンは、他殺の拒否を貫いた。彼は、言葉とともにある生を生き抜こうとして自死を遂げたと言えるかもしれない。混濁してゆく意識のなかで、彼は、大西洋の向こうにいる友人の手に、トランクのなかの原稿が渡ることを念じていただろう。しかし、その願いは叶わなかった。彼が所持していたとされる原稿の行方は、杳として知れない。深夜の海岸からは、波が打ち寄せる音が、風音とともに響いてくる。絶命しつつあるベンヤミンの耳にも、海からの音は届いていただろうか。

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ダニ・カラヴァンのモニュメント《いくつものパサージュ》とポルボウ公営墓地の門

先のアドルノへの伝言にあるとおり、ベンヤミンは、「自分のことを誰も知らない街」で死んだ。いや、それどころか、結局誰であるか知られないまま死んだとさえ言えるかもしれない。当地に残る記録によれば、彼はカトリックの司祭の終油を受けて、ポルボウの公共墓地に葬られた。その記録に彼の名は、“Benjamin Walter”と記されている。故意によってか手違いによってか、姓と名が取り違えられることによって、彼の名前からは、彼がユダヤ人であることを示す要素が消されていた──“Benjamin”は、イベリア半島では一般的なファースト・ネームであるという──のである。このようにしてベンヤミンは客死した。

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ベンヤミンの最後のメッセージを記した墓地内のモニュメント

海に面したポルボウの公共墓地には、もうベンヤミンの墓は残っていない。代わりにというわけではなかろうが、墓地の奥まった場所に、彼を記念する小さな石碑が設けられている。その手前には、ベンヤミンがグルラントに託した伝言の全文とされる文章が記されたモニュメントも造られていた。こちらは、彼の没後75年を記念して設置されたという。この場所を訪れたのは、翌9月26日の朝。墓地から見下ろす海が、もはやベンヤミンが見ることのなかった陽射しを受けて輝いていた。昨夜の雷雨が嘘だったかのように、空は晴れわたっている。

墓地のなかの記念碑には、彼の最後の著作の一つで、未定稿だけが残された「歴史の概念について」の第7テーゼの一節が引かれている。「同時に野蛮の記録であることのない文化の記録など、あったためしがない」。なぜこの一文が刻まれたのかは知る由もない。ただし、ここにベンヤミンの歴史に対する基本的な姿勢が示されていることは確かだろう。彼の思考は、現在を廃墟の相において見据えながら、「進歩」や「発展」と美化されてきた歴史のうちに、抑圧と破壊の痕跡を見届ける理路を探っていた。そして、この痕跡が顔をのぞかせる一瞬を捉え、同じテーゼに言われる「抑圧された者たち」の記憶を今に呼び覚まして、歴史そのものを反転させる可能性を、言葉に凝縮させようとしていたのだ。「歴史の概念について」書かれたテクストは、その試みの痕跡である。それが時の権力者たちにとってきわめて危険なものであったことは、細部の表現が変わっている異稿の存在が物語っていよう。

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墓地内の記念碑

公共墓地の門の手前に、イスラエルの芸術家ダニ・カラヴァンがベンヤミンの没後50年を記念して制作したモニュメントが設けられていることは、つとに知られていよう。海辺の崖を貫通するかたちで造られたこのモニュメントには、《いくつものパサージュ(Passages/Passatges)》という表題が付いているが、それはこのモニュメントの物理的な構成からすれば、逆説的なタイトルではある。なぜなら、その内部の階段を下りて行った先にあるのは海なのだから。ベンヤミンが旅人として、あるいは思想家として辿ってきたいくつもの、いや無数のパサージュ──アーケード、通路、隘路など──に思いを馳せながら、それがこの場所で途絶したことを追想する空間と言えようか。あるいは、この狭い空間を通り抜けることを、カラヴァンは、ベンヤミンが繰り返し論じた「経験」──とくに「閾の経験」──に準えているかもしれない。「経験(experience)」の語には、語源的に「危険(peril)」を潜り抜けるという意味がある。

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カラヴァンの《いくつものパサージュ》の内部から海を望む

モニュメントの内部に入り、階段を下って行くと、カラヴァンが制作した他のモニュメントにも見られるように、開口部の手前に透明の板が組み込まれていて、その上に言葉が刻まれている。その言葉は、《いくつものパサージュ》においては、ベンヤミンが「歴史の概念について」のテーゼを準備するために記した草稿から採られている。「名のある人々の記憶を称えるよりも、名もなき者の記憶を称えることのほうがいっそう難しい。歴史の構成は、名もなき者たちに捧げられている」。行き止まりでもあるカラヴァンの《パサージュ》に刻まれているのは、従来の「歴史」に名を残せなかった者たちに応えようとするベンヤミンの歴史哲学の基本的な問題意識を示しながら、その困難をも暗示する言葉である。その言葉が、ポルボウのモニュメントの空間の内部では、特別な力を持っているようにも感じられる。

カラヴァンが意図しなかったことかもしれないが、ベンヤミンの言葉が刻まれた透明の板には、見る者の姿が必ず映る。モニュメントの内部空間の写真を撮ると、カメラを手にする影が写り込むことになる。モニュメントのなかへ入る者は、海に向かいながらベンヤミンの言葉を読む自分の姿も同時に見ることになるのだ。それによって、ボードレール論における彼の言い方を用いるなら、「眼差しを返される」体験をすることになろう。それも、言葉によって。困難な「歴史の構成」を語るベンヤミンの言葉をここで読む者は、その言葉によって問い返される。この時代、この世界で、彼の歴史への問いをどのように受け止めるのか、と。

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ポルボウ公共墓地から地中海を望む

容易に手の届く史料を基に歴史を物語る──そのことは、ベンヤミンに言わせれば、支配者への同一化である──のではなく、「歴史」から削ぎ落とされ、抹殺されかねない記憶を忘却から掬い上げ、断片でしかありえないこの記憶を継ぎ合わせ、照らし合わせる「構成」は、どれほど困難であることか。しかし、それをつうじて、いくつもの「抑圧された者たち」の記憶を星座のように呼応させ、現在を新たに照らし出す可能性を追求することに、生存──それは死者とともに生き残っていくことである──そのものが懸かっている。だからこそベンヤミンは、「歴史の概念」を、「歴史」に抗して語ろうとした。そして、彼がそのなかに「嵐」を見た「歴史」は、今や彼の時代よりもさらに深く生命を侵食しながら、生存を脅かしている。そのような現在──核の歴史のただなかにある現在──において、歴史の問題にどう取り組むのか。モニュメントのなかで、ベンヤミンの言葉によってそう問われているように思われた。その際、ポルボウでの彼の死にも向き合わざるをえないのではないだろうか。

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ベンヤミンの眼鏡があしらわれたホテル・フォンダ・フランサ跡の銘板

カラヴァンのモニュメントを後にし、ポルボウの街を通って駅へ向かう途中、ベンヤミンがファシストの手先に見張られながら一夜を過ごし、自死を遂げたホテル・フォンダ・フランサのあった建物の壁面に、そのことに触れた銘板があるのを目にした。彼の特徴だった眼鏡があしらわれていた。それ以外にもポルボウの街の至るところに、ベンヤミンとその死に触れたプレートが置かれている。この街では、皮肉なことに、ベンヤミンの記憶は「文化財」と化しつつあるのかもしれない。それがやがて、「文化財」という名の消費財と化してしまうのに抗いながら、彼の思考の問いを喚起する力を掘り起こす必要を、あらためて感じないではいられない。そのことは、ベンヤミンの言葉を、今ここで読む者の責務であろう。

こうしたことを思いながら、午後のバルセロナ行きの列車に乗り込んでポルボウを後にした。ジローナ県の町々を通って行く車窓の外には、往路は見えなかったカタルーニャの田園風景が広がっていた。乾いた土に、今なお強い陽射しが照りつけている。馬が草を食む姿がふと目に入った。牧草地の先には、葡萄畑がどこまでも広がっていた。

他者と応え合う言葉のダイナミズムへ

■他者と応え合う言葉のダイナミズムへ:言葉をめぐるいくつかの個人的な事柄から

言語とは何だろうか。私が普段話したり書いたりしている言葉とは、いったい何なのだろうか。

このように問うことができるのは、おそらく私にとって言語が、ほかの人々ほどに自明のものではないからだろう。言語が何ひとつ自明のものとして与えられていないなかで、言葉をめぐって悲しみと喜びが交錯し続けている。短調のなかに長調を、また長調のなかに短調をふと響かせるシューベルトの音楽のように。

たしかに言葉を聴く、あるいは語る喜びも時折訪れる。しかし、最初にあるのはいつも言葉への悲しみである。まず、私には「私のもの」と言えるような言語がない。鹿児島に生まれた私は、そこで人々が話していた鹿児島訛りの日本語を受け容れることができなかった。私に「マッチョ」さを押しつけようとする当地の気風を嫌悪していたことも多分にあるのだろう。引きこもり気味だった幼い私は、そのかわりに活字となった、あるいはテレビやラジオから聞こえてくる言葉を覚えたのだった。そのことは後に東京へ出て来たとき、その言語環境に最初に馴染むのに多いに役に立ったし、また馴染んでいるらしいことにひそかに優越感を抱いたりもしたのだけれども、自分が覚えてきた言葉が実は東京の言葉でもないことに気づくのにさほど時間はかからなかった。私が話している言葉は、どこの言葉でもない。私はいかなる言語にも住んでいない。そのことは、広島に住み始めて四年目になる今でも何ひとつ変わらない。

私が話し、書く言葉、それはどこにも属さない。だが、その一つひとつは結局どこかからの借り物でしかない。みずからの住み処をもたなければ、真にオリジナルなものであることもない。このような私の、でも私のものではない言語の癒えることのない傷、これがおそらくは言葉への悲しみの源であり続けているのだろう。そのうえ借り物の継ぎはぎにすぎない私の言葉は、やはり他者に伝わらないことが多い。そのことは悲しみをさらに増幅させる。にもかかわらず、考えていることを言葉にしたい、という欲望は止むことがない。ジャック・デリダが述べていたように、ある意味で失語症だからこそ、私は新たに何かを語ろうとするのかもしれない。そして失語のなかから、瓦礫を継ぎ合わせるようにして語り出された言葉が伝わったのがわかる、つまり他者の言葉と響きあっているのが聴こえることの喜びは、やはり何ものにも代えがたいと言わなければならない。しかし、その喜びもやがて悲しみに変わる。他者は私の言葉を、私が望む響きで聴いてはいないし、そもそも私は望みどおりの響きなど一度も響かせることができていないのだ。

おそらくは、このような言葉をめぐる喜びと悲しみの交錯が今、私を言葉への問いへと駆り立てている。自分がけっしてなり代わることのできない他者とのあいだで語り交わされ、ときに他者の言葉と響きあい、またときに他者の言葉とぶつかり合う言語、それはいったい何なのだろう。言語というもののどのようなありかたにもとづいて、一つの言語が新たに世界のなかへ語り出されて、けっして同じ立場に立つことができないし、それゆえ同じ痛みを感ずることもできない他者と応え合うという、奇跡とも見える出来事が起きるのだろうか。そのような出来事をくぐり抜けてきた経験にもとづいて、今言語についてもし言えることがあるとすれば、それは、言語が根源的には、けっして同類たちのあいだの意思疎通の手段、すなわち「コミュニケーション・ツール」ではない、ということである。自分と深淵によって隔てられた他者とのあいだで言葉を交わし、響きあわせて理解し合うこともここで仮にコミュニケーションに含めるなら、言語はむしろコミュニケーションのための手段である以前に、その回路を最初に切り開くかたちでつねに新たに形づくられてくるのではないか。だからこそヴァルター・ベンヤミンは、言語は本質的に、一定の情報ではなく、コミュニケーションの可能性そのものを他者に伝える、とさえ述べているのではないだろうか。最初にあるのは、他者への呼びかけであり、それはすでにして他者がそこにいることに対する応答なのである。

そのように言語についての問題意識が深まるなか、私は越境する作家たちのことを知った。自分の「母語」を越える経験をしながら書き続ける作家たち、たとえば母語ではない日本語を創作の言語とするリービ英雄、あるいはドイツ語の歴史に参与しているという自負をもってドイツ語でも作品を発表し続けている多和田葉子。これらの作家たちは、自分が最初に身につけた言語を越えながら、さらにはすでにある「日本語」や「ドイツ語」をもつねに越えゆくかたちで、みずからの創作の言語を形づくっていよう。そしてそうしてつくられた言葉が読まれていることは、越境しながら生成を続ける言語こそが普遍的でありうることとともに、いかなる共通の地盤ももたない他者とのあいだで、「母語」を越えて言葉を交わしあうことの可能性を指し示しているはずである。

もちろん、これら二人の作家たち以前にも「母語」を越えて書き続けた文学者はいた。たとえば、今はウクライナのチェルノヴィッツでユダヤ系の家庭に生まれ、いくつもの言語を身につけながら、自分の家族をはじめ親しい人々を抹殺したドイツ人の言語であえて詩を書き続けた詩人パウル・ツェラン。「アウシュヴィッツの後で」の詩の不可能性と対峙しながら、口ごもりつつ、沈黙のなかへ消え入るわずかに手前のところで死者たちの沈黙と拮抗しようとするかのような彼の詩の言葉は、ドイツ語のなかにそれを見つめなおさせる異質な石の響きを紛れ込ませるとともに、ドイツ語で語る人々に、さらにはそれ以外の人々にも、言葉を語ることの可能性を、その不可能性とともに問い直させるきっかけを、今なおもたらし続けているのである。

こうしたツェランの詩の言葉の一つひとつは、沈黙のなかから響いてくる。そのことはまず、言葉というものがつねに沈黙のなかから、沈黙に抗するかたちで、しかも沈黙を陰翳としながら語り出されてくることを思い起こさせる。新たに何ごとかを語ろうとする者は、沈黙のなかで言葉を探らなければならない。そしてそれを沈黙のなかから響き出させるとき、一つの新しい言語が世界のうちに生成している。まさにこのことを、すでに自明のものとして与えられている特定の言語を道具として使いこなすことだけを見ながら言語について考える者は、見すごしているのである。何かを言葉にしようとするなかで、一つひとつの言語は、沈黙のなかから新たに形づくられてくる。しかも、そのとき言語は、ある自分が語ろうとする前に、言わばおのずと語り出されてくるのだ。

そのことを指してベンヤミンは、言語は「媒体」であると述べているのだろう。言語とは、根源的には情報伝達と意思疎通の「手段」ではない。そうした手段として機能する以前に言語は、自己へと沈潜しながら自己自身を新たに形づくり、他者へ向けて自己を打ち明ける媒体である。そして、そのような生成のなかでこそ、一つの言葉は、新たに何ごとかを言い表わす一つの表現のメディアでもありうるのだ。にもかかわらず、「日本人」なるもののアイデンティティの拠り所として、「正しい日本語」という実体があるかのように主張する言説が、「日本語ブーム」が去りつつある今でも後を絶たない。そのようにして一個の統一体として「日本語」を仮構することは、言語の生成の運動を圧殺し、それとともに言葉を話す自分自身を、権力による動員の対象ともなりうるような仕方である一つの、他者と応え合うことのないアイデンティティのうちに囲い込むことでしかないはずだ。むろん、そうする者にとっては、言葉もそれを語る自分も閉じ込められていたほうが「ふつう」で「安心」なのかもしれないけれども。

ところで、かつて「〈沈黙〉と測り合えるほどに強く少ない音」を追い求めていた作曲家武満徹は、そうした音の前に「充実した沈黙」がなければならないとも語っている。「充実した沈黙」、そのなかではけっして音声に解消できない他者の沈黙と、それを前にして言葉をいったん失いながらそれに耳を傾けることの沈黙とがせめぎ合っていることだろう。そのただなかから沈黙を破る言葉、それだけが、自分が今ここにいることを証明する。武満は、そのような言葉を、そして──ここで言語を、狭義の「言語」だけにかぎられないものと考えるなら──新しい音楽という彼の言語を、生涯にわたって追い求めていたのだろう。「沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外のなんでもない。沈黙の坑道から己れをつかみ出すことだけが〈歌〉と呼べよう」。そして、その歌のうちに武満という作曲家がいるとするなら、ほかならぬこの「自分」というものも、沈黙のなかから一つの言葉を語り出すことのうちにしかないのかもしれない。

私が今その思想と向きあっているベンヤミンは、沈黙のなかから沈黙に抗ってかたちづくられ、今ここの自分の存在を証明するかたちで語り出される「媒体」としての言語とは、本質的に「名」であるとも述べている。「名」、それは一般的な「名詞」ではない。彼が「名」ということで考えているのは、名づける行為であり、さらに言えば、ある何か、あるいは誰かそれ自身を命名しようとする言葉が生成してくる動き──その最も純粋なかたちは、ベンヤミンによれば神の創造と重なりあう──そのものである。例えば、ある誰かの名を呼ぶとき、私はまだいかなる情報も伝えていない。自分がけっして立つことのできないそこに他者がいることを肯定しながら、自分がここにいることだけを伝えようとしているのだ。そうして私は、未だ開かれていない、他者と応え合う回路を、他者とのあいだに開こうとしているのである。ベンヤミンが言語は本質的に「名」であると述べるとき、彼は、沈黙のなかから新たに語り出されてくる言葉が、自分とは異他なるものの存在を肯定し、それに応える自分を差し出すと同時に、自分とその異他なるもののあいだに一つの回路を新たに切り開こうとしているのを暗示しているのではないか。武満にとって一つの歌ですらあるような言葉の響きは、ここにいる自分とそこにいる他者のあいだを開くのではないだろうか。

さらにベンヤミンによれば、この地上において名づけるはたらきは、他者からの語りかけを受け容れ、聴き届けることをつうじてのみ発動する。しかも、その語りかけにはつねに、音声に解消できない異質さが、こちらの言葉を失わせるような沈黙が含まれているという。それを受けとめながら、一つの言葉を他者の言葉から聴き出すこと、それが今ここで、神からすれば一つの儚い被造物であるこの私が言葉を語ることの始まりにあるのだ。そして、そのことが一つの言語を生成させるのである。そして、このように受動的かつ能動的に他者に応答する言葉をかたちづくることを、ベンヤミンは「翻訳」と呼んでいる。二つの言語体系を前提するのではなく、一つの言語を発見しながら、それと異なったもう一つの言語を生成させるような翻訳、これが言葉を語ることの核心をなしているのだ。とすれば、この翻訳は、他者と応え合う言葉として生成する言語のダイナミズムの原動力とも言えよう。言語それ自体を彼のいう意味での翻訳の活動として見つめなおすなら、私が普段話し、書いている言葉を、深淵によって隔てられた他者とのあいだで他者の言葉と応え合い、響き合い、ときにぶつかり合いながら生成を続けるものとして捉え返すことができるのでは、と現時点では考えている。

もちろん、そうした他者とのあいだで発動する言語のダイナミズムは、それぞれの言語が共同体の「母語」ないし「国語」の体系として整備され、同類のあいだの「コミュニケーション・ツール」として対立しあうバベル以後の、そしてとりわけ近代以降の世界では覆い隠されていよう。しかし、ベンヤミンによれば、このバベル以後の世界の内部でも、他者の言葉の異質さに直面するとき、すなわち他者がまさに「他」であることが突きつけられるときに、自分の「母語」を突き抜けてでも他者の言葉の異質さに開かれるなら、そうして他者の言葉をもう一つの言葉で聴き届けるなら、「媒体」としての言語のダイナミズムを再び活性化させることができる。つまり、自分がすでに身につけた一つの言語に揺さぶりをかけながら自分の言葉を他者に応答する言葉として見いだすような翻訳の実践をつうじて、もう一つの言語が生成するのである。

とはいえ、そのように言語を再生させようとするときにも、私は借り物の言葉を語るほかはない。私は言語を無から創造することはできない。とりわけ狭義の言語を語るとき、私は世界のうちに散らばっている、他者たちがすでに語った言葉たちを拾い集めてくるほかはない。そうして借り物を継ぎ合わせることは、たしかに先に触れたような悲しみをもたらす。私の言葉は、私の望む響きから遠ざかってゆくし、それとともに不透明な物質性を帯びた言葉は、いかようにも読みうる書きもののように他者の前に差し出されるのだ。そのことを前にして私は言い淀んでしまう。だが、私は借り物の言葉しか語ることができないのだ。とすれば、世界のなかで言語が書きものの物質性を帯びるほかはないことを、どのように引き受けることができるのだろう。あるいはそのことを、言葉の身体性としてどのように生かすことができるのだろうか。私は今こうした問題に取り組もうとしている。

言語とは何だろうか。私がふだん話したり書いたりしている言葉とは、いったい何なのだろうか。最初に掲げたこの問いを、私は、私が今ここで、そこにいる他者とのあいだで言葉を語り交わす可能性へ向けて問いかけようとしている。私は、言語そのものを問うことをつうじて、沈黙のなかから他者と応え合う言葉として生成するダイナミズムにおいて言語をとらえかえそうとする思考の歩みを──しばしば立ち止まりながら──進めつつあるところなのである。

[2005年7月11日]

崇高なる愛の自然=歴史の舞台

■崇高なる愛の自然=歴史の舞台──ベルリン国立歌劇場におけるビゼー「カルメン」新演出上演に寄せて[2005年]

「定めなんだわ! きっとそうなる。あたしが先で……それから彼……運命には逆らえないわ」(歌劇「カルメン」第3幕第6場におけるカルメンの台詞)。

ビゼーのオペラ・コミック「カルメン」の最終場面(第4幕第2場)のつくりは、この作品がヴァーグナーの「楽劇」の対極にあることを、最もはっきりと示していよう。ドン・ホセが、最終的に手にした短刀で、自分を捨てて闘牛士エスカミーリョを選んだかつての恋人カルメンを刺し殺すに至る、二人のあいだの緊迫したやり取りは、遠くから聴こえるこの闘牛士を讚える合唱によって、三度にわたって中断される。いや、二人が対峙する情景は、そのとき静止させられるのだ。エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」における、オデッサ港を見下ろす丘に上る階段で皇帝の軍隊が民衆を虐殺するあの場面のモンタージュを思い起こさせるような仕方で、別の時間が差し挟まることによって、眼前の情景の時間が静止し、それとともに、情景の緊張度はいやがうえにも高まってゆく。そのように、カルメンの死という一点へ向けて強度を増してゆく断続的な時間を現出させるビゼーの音楽は、近代の民族神話を呼び起こそうとする意味──と言うよりも作曲家の意図──によってすべての音が拘束されていて、それによって途切れることのない時間の流れ──聴き手を巻き込もうとする流れ──を現出させるヴァーグナーの音楽とは、まったく対照的である。そして、それゆえに「カルメン」に魅せられた「ヴァーグナーの場合」のニーチェによると、南欧の乾いた空気のなかへ音を解放するビゼーの音楽は、このような中間休止を含んだ時間を舞台上に現出させることによって、愛の真理を明かすのである。

愛するとは、ヴァーグナーがその楽劇のなかに描いたように、偽りの同情や利他性のために自己を犠牲にし、それをつうじて──場合によっては来世において──相手を所有することではありえない。そうではなく、愛するとは、抑えがたく沸き上がる激情も含めた自分自身に、すなわち身体を含めた自己にどこまでも忠実であること──カルメンはこれを「自由」と呼んでいる──であり、またそうすることで自己を他者も所有しないことなのだ。そのような愛の真理が、理知的な自己保存を捨ててホセの前に身をさらけ出すカルメンの崇高さにおいて露呈されているのである。しかしながら、ニーチェによれば、この「自由」としての愛、「自然のなかへ翻訳し戻された愛」は、同時に「宿命」としての愛でもある。愛する者は、自由であろうとすればするほど、自分以外のものに、「自然」という他者の「戯れ」に翻弄される。そして、この「冷笑的で、無邪気で、残酷」な「宿命」としての愛の「悲劇的な戯れ」としての本質は、「カルメン」の幕切れの直前に、恋人を殺すという行為の意味を理解しないままカルメンを手にかけるホセの非知のうちに屹立するのである。

このような「自由」にして「宿命」であるような愛は、オーストリア出身の演出家マルティン・クシェイによると、絶えず死という一点へ向けて転がり落ちてゆく。フロイト的な言い方をするなら、愛に生きる者は、死への欲動に衝き動かされているのだ。2004年12月11日と19日の2回にわたり、ベルリン国立歌劇場でこの演出家の新演出による「カルメン」の公演を見たが、その演出においては、カルメンが歌い、生きる「自然のなかへ翻訳し戻された愛」には、つねに死の影が付きまとっている。それどころか、彼女以外の愛する者もすべて、まさに愛するなかで死の手に落ちようとしているのだ。そのことをクシェイはまず、舞台の風景によって暗示しようとしているようである。

幕開けの場面の舞台となるセヴィーリャの街の広場は、建物一つない、砂漠のような荒涼とした空間。それは、乾いた空気を突き抜けて太陽が燦々と照りつけるなか、すべてが砂へと崩れ落ちてゆく、絶えざる衰滅のプロセスを思い起こさせずにはおかない。これに対して第2幕の舞台となる場末の酒場は、一転して湿っぽい、実際に水溜まりもしつらえられている廃墟だった。そこではすべてが錆びつき、朽ち果ててゆくのだろう。クシェイは、このように舞台の風景によって、死と愛の近さを暗示するばかりでなく、台本の翻案によっても、愛する者の儚さを描き出している。台本および原作の小説と異なって、第3幕では、ドン・ホセの婚約者ミカエラが、ホセによって射殺されてしまうし、終幕では、エスカミーリョまでもが死体となって運び去られてゆくのである。

たしかにこうした大胆な翻案にはいくぶん驚かされたが、「自由」であろうとすればするほど、「宿命」の虜となり、死へと凋落してゆくものとして「愛」をとらえようとするこの演出のなかに置いてみると、本来書かれていないミカエラの死もエスカミーリョの死もそれほど違和感を感じさせない。むしろ、いかなる意味も救済しえない強度において「自然のなかへ翻訳し戻された愛」を描き出す「カルメン」のドラマにおける必然とさえ思えてくる。それほどまでに、今回のクシェイの演出には説得力があった。それは、幕開けから見る者をぐっと惹きつける。有名な闘牛士の歌の前奏曲に続いて演奏される、運命の主題によって貫かれた二曲目の前奏曲がしだいに高まるなか、縛られた殺人犯ホセにゆっくりと目隠しが付けられ、激しいトゥッティの一撃とともに彼が処刑されるという、これまた本来の台本に書かれていない演出は、舞台上の情景が緊迫の度を増してゆくのと、音楽の、最後の一撃へ向かう直線的な高まりとを、見事に一体化させていたと言えよう。そうすると、以後の本編全体のドラマは、絶命に至るまでのホセの回想として展開されることになるわけだが、その舞台は、第1幕と第3幕に登場する、手前に傾いた舞台上の舞台をなす大道具を除いては、大がかりな装置を一切用いない、どちらかというと寒々としたシンプルさによって、愛に生きる者がすべて死の手に落ちてゆく救いなきドラマを仮借なく描き出していた。それによってクシェイの演出は、真に愛に生きるとは死へと近づくことであるほかはないという「自然のなかへ翻訳し戻された愛」の真理を、より純粋な強度をもって浮かびあがらせていたのではないだろうか。また、第4幕では、右往左往する群衆を登場させて、こうした愛の真理の浮かびあがる場が、近代社会であり、現代の都市であることを暗示していた点も、この演出の迫真性を高めていたと言えよう。

愛とはけっして過去のものではない。それは、カルメンのように愛に生きることがかぎりなく不可能に近づいているかに見える今ここにもありうるのだ。しかし、この演出が示しているのは、その現実が、ニーチェの言葉を借りて言えば、どこまでも「冷笑的で、無邪気で、残酷」であることにほかならない。真の愛の現実は、つねに死によって決着をつけられる悲劇なのだ。クシェイに言わせるなら、「カルメン」という作品は、そのことを突きつけるものなのである。彼の演出は、愛と死の緊密な関係を一貫して強調することによって、このような、どちらかというと甘い憧れの対象である一般的な「愛」の観念を突き崩すような愛の真理の強度を、ほぼ余すところなく取り出すことに成功していたのではないだろうか。

さて、トーマス・マンに捧げられたアドルノの「カルメン」論「カルメンをめぐる幻想」によれば、「自由」と「宿命」の弁証法が展開されるこの「オペラ・コミック」の音楽のクライマックスは、第3幕のカルメン、メルセデス、フラスキータという3人の「ジプシー女」たちの三重唱のうちにある。カード占いをしながら歌われるこの三重唱において、メルセデスとフラスキータには、月並みな、社会への馴化としての幸福、すなわち結婚が約束されるのに対して、カルメンには死の運命が明かされる。そのことを受けとめるカルメンの、低い声で歌い出されるソロのうちに、アドルノは「運命に対する主体の応答」を、その崇高さを見て取っているのだ。社会への適応を拒否して、あくまで「自由」に愛に生きること、それは死へ向けてまっすぐに歩むことにほかならない。その「運命」がカード占いによって明かされるのに正面から向きあうカルメンの歌のうちに、作品全体の音楽の頂点がある、というのである。今回の公演を指揮したダニエル・バレンボイムは、あたかもアドルノのこのような解釈を念頭に置いているかのような音楽づくりを示していた。彼はこのカルメンのソロが始まる直前に、それまでの音楽の流れを断ち切る重いフォルテを置き、カルメンの崇高さを際立たせていたのである。

この場面をはじめとして、バレンボイムはオーケストラから、固い芯のある、それでいて内容豊かで迫力にも富んだ響きを引き出していた。何よりも、ビゼーの音楽自体に内在するダイナミズムを、現在のオーケストラによってこそ可能な仕方で、増幅されたかたちで実現させるかのような、説得力に富んだ指揮は特筆に値しよう。とりわけ、第3幕のホセとエスカミーリョの決闘のシーンでオーケストラが示した、凄まじいまでの疾走は忘れがたい。とはいえ、バレンボイムの、どちらかというとヴァーグナー向きの持ち味もあって、オーケストラの響きは、ビゼー特有の爽快な切れ味には不足する。冒頭の前奏曲をはじめ、ところどころ響きが重くなりすぎていたし、第3幕の最初の密輸業者の合唱など、ほとんどヴァーグナーの音楽のような重々しい歩みを示していた。こうした、「さまよえるオランダ人」の幽霊船の船員の合唱を思わせる音楽にも、それはそれで凄まじい迫力があったのだけれども。

歌手のなかでは、ホセを歌ったメキシコ出身のテノール、ロランド・ヴィラソンが出色の出来。ほんとうにはまり役という感じで、愛に狂った男、というより愛するとは非知であり、狂気でもあることを全身で描きながら、すべてのアリアをほぼ完璧に歌っていた。これほどまでにカルメンという女性に心を奪われた男の危うさを表現しえた歌手がいただろうか。カルメンを演じたマリーナ・ドマシェンコは、両日とも当初声がこもりがちだったが、だんだんと調子を上げてきて、先に触れたカード占いの三重唱をはじめとする数々の歌において、カルメンにとっての「自由」であり、社会にとっての悪であるようなその魅力を、切れ味鋭く表現していた。何よりも声が太すぎないのが好ましい。ミカエラを歌ったドロテア・レシュマンは、この清楚なみなしごにしては声が太すぎる感じもなくはなかったが、無理なく完璧に歌う様子から、実力のほどは伝わってくる。エスカミーリョを歌った、ハンノ・ミュラー=ブラッハマンもなかなかの好演。そして、こうした主要な役柄を歌う歌手ばかりでなく、わき役を歌った歌手たちも、舞台をしっかりと引き締めていたのが、とりわけ印象的だった。

おそらく、「カルメン」という作品の真理内実を、考え抜かれた演出と水準の高い演奏によって十全に浮かびあがらせた、という点で、これほどまでに完成度の高い「カルメン」の公演に今後触れることはきわめて稀なことであろう。そして、この新演出による「カルメン」の公演は同時に、「オペラ・ハウス」という近代の装置の内部で、その桎梏を越え出ようとする試みでもあったと考えられる。スラヴォイ・ジジェクが『否定的なもののもとでの滞留』で述べているように、近代的主体の歴史と重なる歴史をもったオペラというジャンルが、アイデンティティをもった人格ないしその一定の意味へと回収されうる「人間性」を表象するものであり、オペラ・ハウスがそのための装置であったとすれば、今回の「カルメン」の公演は、ニーチェ的な「自然のなかへ翻訳し戻された愛」の意味へと解消しえない崇高さを表現するものである点において、この装置の限界を踏み越えていたと言えよう。しかもその崇高さは、今回の演出によれば、ベンヤミンがそのバロック悲劇論において語っている「自然=歴史」のうちにのみ、すなわち人間の歴史を自然が絶えず侵食するなかで絶えず衰滅を続ける「世界の受難史」のうちにのみ現出する。愛することを突きつめてゆくなら、死ぬことに限りなく近づくのだ。

このことが「カルメン」という作品の核心にある真理内実であることを取り出すことによって、今回の公演は、「カルメン」という「オペラ」として最も人気がある作品を脱構築し、それとともに「オペラ」というジャンルに内側から揺さぶりをかけることに成功していたのではないだろうか。そしておそらくは、「オペラ」を内側から突き破ってゆくことによってのみ、これまでに書かれたオペラ作品も、これから書かれるオペラ作品も生き続けることができるはずである(ちなみに、ベルリン国立歌劇場におけるヤナーチェクの「カーチャ・カバノヴァー」の新演出上演に際して講演を行なったジジェクは、その『オペラの第二の死』において、やや図式的に過ぎるきらいはあるものの、近代オペラの極点とも言うべきヴァーグナーの楽劇のうちに、その可能性を探っている)。2005年の2月初めまで、ウンター・デン・リンデンの国立歌劇場では、この「カルメン」以外にも、武満徹の作品を再構成したムジークテアターや映画監督ミヒャエル・タルハイマーの新演出によるヤナーチェクの「カーチャ・カバノヴァー」の公演など、「オペラ」と「オペラ・ハウス」の限界を内側から踏み越えようとする試みに、いくつか接することができた。そのような試みのうちにある崇高さに打ち震え、その経験を、言説の定型を解体しつつ語り出すことが、これからの「オペラ」に関する批評的言説の課題となるにちがいない。

唯一無二のヒロシマを普遍的に記憶する

アメリカ軍の爆撃機エノラ・ゲイによって当時一大「軍都」でもあった広島に原子爆弾が落とされ、一瞬にして十数万の人々の命が奪われてから60周年の日を迎えるにあたり、その記憶を普遍化する可能性を考えてみたい。この60年のあいだ、重い口を開き始めた被爆者たちを中心に、いわゆる「被爆体験」──この言い方自体は好ましいものとは思えないのだが──を語り伝え、また平和運動や学問的言説をつうじて、また音楽、演劇、美術、文学などさまざまなかたちで、その「体験」を語り継いでゆく努力がなされてきた。そして、それによって「ヒロシマ」の名は、平和を愛する世界中の人々のうちに、核のない平和な世界への憧れを喚起する名として銘記されるようにもなったのだ。

しかしながら、先ごろ広島を訪れ、ヒロシマの記憶が広島という地域を越えてゆく希望を語ってくれたキャロル・グラックによれば、ヒロシマの記憶は、例えば「ホロコースト(ショアー)」の記憶ほどには、あるいは「従軍慰安婦」の記憶ほどにも、世界的に普遍的なものにはなりえていない。また、そのようななかで、とくに若い世代のあいだで、自分が今ここで「ヒロシマ」を記憶する責任が見失われてきている──記憶の「風化」を言うなら、それはこうした状況についてこそ言われるべきであろう──ことも否定できないはずだ。さらには、こうした間隙を突くかたちで、日本においては、再び戦争を行ないうる国家をつくる憲法の「改正」が進められようとしているばかりか、子どもたちを国家の戦争に命を捧げる「国民」にするための、いわゆる「愛国心教育」も押し進められようとしている。

他方で、泥沼化し、常態化したいわゆる「テロとの戦争」が、理由なき憎悪を世界中に浸透させようとしているなか、小型の核兵器が、世界各地に分散した武装組織の手に渡る危険を理由に、すでに核兵器を手にした国々は、それを手放そうとしていない。このように人類が、一人ひとりのうちに他者に対する責任として潜在する自由と倫理性を犠牲にするかたちで、あまりにも野蛮で凄惨な殺し合いへの「総動員」の客体になろうとしている状況を、そのようなものとして見抜き、来たるべき戦争による死へと向かいつつある政治の流れを食い止めるために、かけがえのないヒロシマの記憶を、普遍的なものとして、すなわち広島という地域の境界を越えて語り継がれうるかたちで、今ここに、世界へ向けて甦らせなければならない。そして、そのためにはまず、唯一無二のヒロシマの記憶を普遍的なものとして再生させる可能性が問われなければならないはずである。

すでに触れたように、原爆の記憶の「風化」ということがしばしば言われている。その「風化」が、広島を無辜の「被害者」として、さらには日本を「唯一の被爆国」として、その「被爆」にまつわる歴史的経緯の複雑さ──例えば、被爆者のなかに日本軍によって徴用されていた朝鮮半島や中国の人々が含まれていることや、捕虜として広島に送られていたアメリカ軍の兵士が一般市民の手で虐殺されたことなど──を捨象しつつ祭りあげる、あまりにも単純な自己正当化の物語──キャロル・グラックが「ヒロイック・ナラティヴ」と呼ぶもの──について述べられているのだとするならば、「風化」とは、この内向きの、普遍的ではありえない物語を解体して、60年前の8月6日を唯一無二の「グラウンド・ゼロ」とする記憶を、広島の外へも語りかけうるようなかたちで更新する余地を与えるものでもあろう。

では、そのようにかけがえのない記憶を普遍的なものとして再生させるとは、どういうことなのだろうか。キャロル・グラックは、ヒロシマの「グラウンド・ゼロ」で起き、おびただしい死をもたらすかたちで体験されたことを、世界じゅうの誰の身にも起こりうることとして、人類へ向けて語りかけ、問いかけなければならない、と述べていた。1945年8月6日の核兵器使用とそれによる市民の無差別大量虐殺を、今ここの、今生きているわたしたち自身の重大な問題として提起する必要があるのだ。

そのきっかけとなるのは、ヒロシマの出来事を、広島以外の場所で起きたこと、あるいは起きつつあることと結びつけることであろう。ヒロシマを、たとえば無差別虐殺にも等しい仕方で戦術核なみの破壊力をもった爆弾の落とされたアフガニスタンと、あるいは大量の劣化ウラン弾が使用され、放射能による死がもたらされつつあるイラクやバルカン半島と──皮肉なことにこれらの加害者はすべてアメリカの軍隊である──関係づける視座に立つときにこそ、唯一無二のヒロシマの記憶を、今わたしたちがどのような時代に、またどのような世界に生きていて、そこでどのような危機に直面しているのかをグローバルな次元で照らし出す、普遍的なインパクトにおいて、創造的に更新させることができるはずである。そうすることでわたしたちは、60年前に起きたことを繰り返させないという人類に対する、とりわけ未来の他者たちに対する責任を、引き受けてゆくことができるのだ。

キャロル・グラックの同僚だったエドワード・サイードは、その『知識人とは何か』のなかでいみじくもこう述べている。「自分が属する民族の集団的苦難を表象し、その苦難の証言者となり、いまもなお残る試練の傷痕を絶えず喚起し、記憶を更新するという、この重要なことこのうえもない責務に加えて、知識人だけがおこなえると、わたしの信ずるものを述べておかねばならない。多くの小説家、画家、詩人、たとえばマンゾーニやピカソやネルーダといった人びとは、民族の歴史的経験を美的作品に盛りこんだのであって、作品が傑作として認知されるようになったのは、そのあとのことである。したがって知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験と結びつけることである」。サイードがここで「知識人がなすべきこと」として語っていることを、今私たち一人ひとりが、ヒロシマを出発点にして行なわなければならないのだ。彼によれば、「知識人」は「アマチュア」に徹しなければならない。とすればなおのこと、私たちも今ここで、彼のいう「知識人」の役目を果たしうるのではないだろうか。

そうすることはまた、自分が無関心でいられない遠くの、しかし今を共有している他者たち、先に挙げたところで言えば、アフガニスタンやイラクやバルカン半島の他者たちに対する責任を引き受けることでもあろう。それは言い換えるなら、その他者たちから平和への、さらには正義への呼びかけを聴き取り、それに応答することであると考えられる。そのような応答の言葉、応答責任を引き受ける自分自身の言葉であってこそ、現在の危機に立ち向かうかたちで差し出されうるのではないだろうか。サイードは続けてこう述べている。「ある民族が土地を失ったとか、弾圧されたとか、虐殺されたとか、権利や政治的生存を認められなかったと主張しても、同時に、ファノンがアルジェリア戦争でおこなったことをしないかぎり、つまり自分の民族をおそった惨事を、他の民族がこうむった同じような苦難と結びつけないかぎり不十分である。これは、特定の苦難の歴史的特殊性を捨象することとはちがう。そうではなくて、ある場所で学ばれた抑圧についての教訓が、べつの場所や時代において忘れられたり無視されるのをくいとめるということである。そしてまた、自分の民族が舐めた辛酸を、それも自分自身が舐めていたかもしれない辛酸を表象しているからといって、自分の民族が、いま同様の犯罪行為を他の民族に対しておこない犠牲者をだしていることについて、いっさい沈黙してよいということにはならない」(以上大橋洋一訳、平凡社、1995年)。そうなのだ。こうして未来および同時代の他者たちに対する責任を引き受けながら、ヒロシマの記憶を、普遍的な問題を提起するものとして、人類へ向けて、しかも現在の危機に抗するかたちで語り出すことは、けっしてヒロシマの特異性をなおざりにすることではない。むしろ、他の出来事との関係においてヒロシマの出来事をもう一度問い直し、そのかけがえのなさを新たに際立たせてゆくことであろう。

その際にまず求められることは、60年前の8月6日の出来事にまつわる歴史的な諸関係の複雑さから、あるいはその出来事に関するさまざまな記憶の抗争から、けっして眼を背けないことである。ヒロシマの記憶を特異なものとして普遍化するために必要なのは、それに関する単一の、虚構の「われわれ」を慰撫するような内向きに完結した神話ではない。むしろ、そうした神話を解体すること、サイードが『知識人とは何か』で引いているヴァルター・ベンヤミンの言い方を借りるなら、「歴史を逆撫でする」かたちで、歴史を単純化する神話が抑圧し、忘却してきた記憶を今に呼び覚ましてゆくことが必要なのである。こうして新たにヒロシマを問い直すとき、私たちは、痕跡を残してもういなくなってしまった、あるいはまだ生き残っている、これまで物語られてきた歴史の他者たちの証言に遭遇することになる。ヒロシマを特異な出来事として記憶するとは、そうした歴史の他者たちに応答してゆくかたちで、その出来事にまつわるさまざまな記憶の配置を少しずつ描き出し、複数の記憶が唯一のヒロシマのモザイクをかたちづくっているさまを、広島の外へ向けて浮かびあがらせることなのだ。

しかも、今ここで私たちがこの歴史の他者に応えなければ、その記憶は取り返しのつかない仕方で再び忘却の淵に葬り去られてしまうし、また私たち自身も、現在支配的な神話に身を委ねてしまうことになる。それゆえ、歴史の他者に対する応答責任を引き受け、自分が現在そのような危機に直面していることを認識するところから、ヒロシマを記憶することを始めなければならない。ベンヤミンは「歴史の概念について」(通称「歴史哲学テーゼ」)のなかで、過去を記憶することについてこう述べているのである。「過去を歴史的に関連づけるとは、それを「もともとあったとおりに」認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである。歴史的唯物論の問題は、危機の瞬間に思いがけず歴史の主体のまえにあらわれてくる過去のイメージを、捉えることだ。危機は現に伝統の総体をも、伝統の受け手たちをも、おびやかしている。両者にとって危機は同一のものであり、それは、支配階級の道具となりかねないという危機である。どのような時代にあっても、伝統をとりこにしようとしているコンフォーミズムの手から、あらたに伝統を奪いかえすことが試みられなければならぬ。メシアはたんに解放者として来るのではない、かれはアンティクリストの征服者として来るのだ。過去のものに希望の火花をかきたててやる能力をもつ者は、もし敵が勝てば〈死者もまた〉危険に曝される、ということを知りぬいている歴史記述者のほかにはない。そして敵は、依然として勝ちつづけているのだ」(野村修訳、岩波文庫、1994年)。

ここで「伝統」を、ヒロシマの記憶の継承と考えるなら、唯物論とメシアニズムを結びつけるベンヤミンの言葉は、広島の今にも響いてくるにちがいない。高齢化の進む被爆者たちの平和への希求を踏みにじるかたちで、ヒロシマ以前と同じ戦争を遂行しうる、また人々がその戦争に命を捧げる国家をつくりあげようとする現在の政治の趨勢に抗して、今ここで被爆者たちの声を新たに聴き出し、ヒロシマをめぐるさまざまな記憶を新たに洗い出し、さらにはそこにある記憶の抗争をもパブリックなものにしてゆく努力を続けなければならない。そうしてかたちづくられる新たな「過去のイメージ」を、今こそ、戦争へ向かう流れを食い止める新たな「パブリック・メモリー」(キャロル・グラック)の形成へ向けて差し出さなければならないのである。

ここでいう「過去のイメージ」は、けっして完結したものではありえない。閉じた神話的なイメージを形成することは、むしろ現在生きている自分を正当化するために、過去を歪曲し、その記憶を抑圧することなのだ。60年前の8月6日の出来事は、それ自体としてはいわゆる「表象の限界」を越えた凄惨さをもっている。それは被爆者自身にとっても長いこと「語りえない」出来事であったし、今も多くの被爆者にとって「語りえない」ものでありつづけている。そのような過去の出来事と今生きている自分とのあいだの埋めることのできない断絶をしかと受けとめたうえで、過去と出会っている今ここで呼び起こしうるその記憶を、その複雑さを捨象することなく、さらなる補完に開かれた言語的なイメージのかたちで甦らせることが、ヒロシマの記憶を唯一無二のものとして再生させつつ、普遍化することにつながるのではないだろうか。

このようにして、過去にまつわるさまざまな記憶の複雑な絡みあいを、その複雑さから目を背けることなく解きほぐそうとするなら、そうして過去を記憶する自分自身もけっして無実でないことが浮かびあがってくる。私たちは、そのなかに日本軍による徴用のために被爆者となった人々も含まれるアジアの人々に対する行為の償いを果たしていない、さらに言えばそれを償おうとすらしていない政府の庇護のもとで、あるいはそのような企業の恩恵を受けながら生きている。しかも、そのなかでアジアの人びとに対する責任をなおざりにしたまま、政府と企業が結託して戦争を遂行しうる国家をつくろうとしている動きを止められないでいる。

このことをテッサ・モーリス-スズキはその『過去は死なない』のなかで「過去への連累」と呼んでいるが、それが過去を想起する自分のこととして突きつけられてくるのである。それを現在の問題として見すえながら、さまざまな記憶と対話する努力を重ね、それを今に甦らせつづけること、これを彼女はさらに「歴史への真摯さ」と呼んでいる。「ひとつの出来事についてのさまざまに異なる表現に耳を傾ければ、歴史知識の伝達を形成する力を理解して、歴史のプロセスへのわたしたち自身の〈連累〉を理解するために豊かな知識の宝庫を利用することができる。こうして、〈歴史への真摯さ〉には一種の継続的な対話が関わってくる。その対話をとおして、ますます増える過去からの声のレパートリーに耳を傾け、聞いた物語を語り、語りなおし、そうすることで現在の自分を定義し、定義しなおす。この意味で、過去についての完璧でどこまでも〈正しい〉表現など不可能であることを認めつつ、このような努力をすることが抹殺の歴史学と闘うための出発点になるのではないだろうか、とわたしは言いたい」(田代泰子訳、岩波書店、2005年)。

キャロル・グラックは広島で、「未来を記憶する」ことを語りかけていた。わたしなりに言い換えるなら、私たちの未来へ向けて、さまざまな記憶の抗争があることなど一つの出来事をめぐる歴史の複雑さをけっしてなおざりにすることなく、過ぎ去った出来事を、特定の地域を越えた普遍的な問題を提起するものとして記憶し続け、世界的な「パブリック・メモリー」を形成してゆくこと。このような「歴史への真摯さ」を外へ向けて発揮することこそが、今ヒロシマという原点で求められているのである。唯一無二のヒロシマを普遍的に記憶するために。

[2005年8月6日]

■追記

上の小文は、2005年7月28日に広島市まちづくり市民交流プラザで行われたキャロル・グラックの講演「未来を記憶する──ヒロシマと世界」および、7月30日に広島国際会議場で開催された国際シンポジウム「ヒロシマと平和憲法──私たちはその精神をどう活かすか」(主催はいずれも広島市立大学広島平和研究所)の際に彼女が行なった報告「原爆の記憶の自然史──私たちの時代のための遺産」に触発されて書いたものである。この機会に個人的にも親しく話をしてくださったグラック教授に心から感謝申し上げる。

■付論

□新たな戦争の時代における平和についての暫定的テーゼ

平和とは「ただで」与えられているものではない。それは、守られなければならないものとして初めからあるわけではない。

平和とは、つねに問われなければならないものである。それは、「平和とは何か」と問う徹底的な思考をつうじて、絶えず新たに築かれなければならない。

しばしば「平和」の名において戦争が起こされる。「国民の平和と安全」のために「敵」を倒さなければならないというわけである。

このような「平和の逆説」を前にして問わなければならないのは、戦争によって守られるべき「平和」の質である。「敵」という他者を犠牲にすることによって確保される「平和」は、はたして平和と呼ぶに値するのか。

この問いは、表向き「平和に」暮らしている者、すなわち戦争に巻き込まれていないと信じている者にも向けられている。「平和」と思っているその生活の安寧は、他者に対する公然ないし隠然の暴力、さらにはその構造化の上に成り立っているのではないか。

そのような問いを自分自身に突きつけ、自分が生きている世界では「非常事態」が常態となっていることを洞察すること。そして、そこにある戦争と暴力の新たな形態を認識すること。これが平和をその可能性において問う思考の出発点となる。

今ここにおける可能性として平和を問うとは、他者の面前で自分自身の生存がけっして正当化されえないことを自覚し、みずからの生存をその地盤から揺さぶり、この地盤が抑圧してきた他者からの呼びかけに応えようと試みることである。

[2006年4月27日]

ふたりのマノン

2003年9月、フランクフルトの歌劇場で、同じアベ・プレヴォーの小説『マノン・レスコー』を題材とする二つのオペラの上演に接することができた。一つは「タイスの瞑想曲」で知られるマスネの代表作の一つである『マノン』であり、もう一つはプッチーニの出世作となった『マノン・レスコー』である。十九世紀の終わりにそれほど時をおかずして書かれたこれら二つのオペラにおいて、ドラマはマノンという女性を中心に展開してゆくのだが、その描かれ方は、二つのオペラのあいだで著しく異なっている。あたかもマスネのマノンとプッチーニのマノンという二人のマノンがいるかのように。

マノン、それは近代の商品社会における「最新の」モードで身を包み、みずからその社会における幻像としての魅力を放つことと、ひと目見たときから盲目的に自分に恋い焦がれている一人の騎士への愛に生きることとのあいだに引き裂かれながら没落してゆく一人の女性である。父親の命令で修道院へ送られることになっていた彼女は、若い騎士デ・グリューに見初められ、二人でパリへ駆け落ちする。パリで騎士との仲を引き裂かれて、富裕な官吏の妾となったマノンは、豪奢な生活のなか、その美しさをしばし輝かせるが、最後には騎士とともにアメリカへ追われ、そこで──おそらくは熱病のために──若い命を落とすことになるのである。そのような彼女は、舞台に登場するそもそもの初めからはかなさを刻印されている。若さの儚さ、それと一つである美しさの儚さ。マノンはこの二つを一身に背負って舞台に現われるのだ。

アベ・プレヴォーが生き、またその小説の舞台とした近代社会において、若々しい美への欲望を満たすものは、モードの「新しさ」、すなわち商品の眩惑的な魅力だけである。美への欲望を満たそうとすればするほど、彼女は、今日もファッション雑誌のグラビアやブティックのショーウィンドーなどに見ることのできる商品社会の幻像へと仕立て上げられてゆき、消耗させられてゆくのだ。アメリカの荒野で疲れ果てて死んでゆくという「マノン・レスコーの物語」の結末は、そのことを象徴しているのかもしれない。それをもとにした二つのオペラはいずれも、それでも「新しさ」のうちに美を追い求めざるをえないマノンという女性の弱さを浮かびあがらせている。マスネの『マノン』では、彼女はとても享楽的で、派手な夜会で自分の魅力、最新の幻像としての魅力を振り撒くことを生きがいとする女性として描かれているし、またプッチーニの『マノン・レスコー』の第二幕では、警官に囲まれた家からデ・グリューとすぐに逃げなければならない段になっても、マノンは宝石を手放すことができないのである。

マスネのオペラは、マノンをはかない美を追い求める女性として描くばかりでなく、そのような女性の魅力に打ち勝つことのできない男の弱さもともに描くものと言えよう。パリでマノンと引き離されたデ・グリューは、一度は彼女の思い出を消し去ろうと、キリスト教の教えに生きようとするのだが、彼女が眼の前に現われて許しを請うと、その美しさに、いやその美をわがものにしようとするみずからの欲望に抗しきれず、再び彼女とともに没落への道を歩み始めるのである。そのようなドラマの展開を、マスネは当時のモードに合わせて薄くて甘い音楽で包み、お涙頂戴のメロドラマに仕立て上げている。しかしながら、消費され、やがて忘れ去られても不思議ではないようなマスネの『マノン』の脆さのなかでこそ、近代社会のなかに生まれたマノンという女性のはかなさとその救いのなさが際立ってくるのだ。

彼女が男たちを惹きつけてやまない美しい「マノン」であり続けることができるのは、新しいものを次々と夢見ては少しでも時代おくれになったものを捨て去ってゆく、消費社会の内部でしかない。だが、そこは彼女が内側から消耗させられ、速足で死へと近づかざるをえない場所なのである。マスネのオペラにおいては、そのことが包み隠さず描かれている。そのような「マノン・レスコーの物語」の出口のなさを示すためか、フランクフルトの演出は、オペラを全編にわたってラスベガス風の派手なカジノのなかに置いていた。そこでのいくぶん猥雑ですらある乱痴気騒ぎの虚しさは、商品社会のなかで人々がこぞって追い求める「新しさ」の空虚さを暗示するかのようだった。

マスネのオペラにおいて、マノンの美しさは商品の眩惑的な魅力に解消されてゆき、それとともに彼女は疲れ果ててゆく。そのことは、近代社会においては男たちを惹きつける女性の魅力が、商品の「新しさ」でしかないことも示すものでもある。彼らの肉体的な欲望の対象は、最初から空虚なのである。フランクフルトの演出は、そのことと同時に、この社会において肉体的な欲望を否定することもまた、別の商品の魅力を追い求めることでしかないことも、仮借なく露呈させていた。マノンのことを忘れようとする騎士が向き合っている十字架は、ネオンサインのそれなのである。

マスネの『マノン』が、消費社会としての近代社会における女性とその美しさに刻み込まれた救いのないはかなさを、薄塗りの色彩で際立たせているとすれば、プッチーニの『マノン・レスコー』は、これとは対照的に、近代社会のなかで「まことの」愛に生きることの悲劇を、マスネよりも厚く塗り重ねられた色彩で描こうとしているかのようである。プッチーニの音楽の密度は、マノンとその恋人を、愛に生きる人間の典型として浮き彫りにするものと言えよう。騎士デ・グリューが追放されるマノンとともにアメリカへ向かう船に乗せてほしいと懇願する場面では、その愛への決断を見て取ることができるかもしれない。

しかしながら、商品社会における美の幻想を断ち切って「まこと」の愛に生きようとする人間として二人を描くプッチーニの音楽も、近代社会の産物である「オペラ」の魅力、この商品としての作品の魅力に奉仕している。彼がオペラ『マノン・レスコー』を書いたのは、彼自身がマノンという女性に魅かれていたからだった。プッチーニは、マノンを原作とは異なって彼好みの純粋な女性に仕立てた。それは彼女にプッチーニ一流の甘い旋律を授けることを意味していたわけだが、そのことがまさに、可憐なヒロインの悲劇とそれを演ずるプリマ・ドンナの華麗な歌を求めてオペラ・ハウスに集うブルジョワたちの嗜好にぴたりとはまったのである。プッチーニは自分のマノンを音楽で描くことによって、「売れる」オペラを産み出すことができたのだ。そして彼はその後、次々と自分の恋人たちを舞台に登場させることによって、売れっ子のオペラ作曲家としての道を歩んでゆくのである。

 プレヴォーの『マノン・レスコー』を素材とする二つのオペラ。それらは、ヴァルター・ベンヤミンが「十九世紀の首都」と呼んだパリのブルジョワたちのまどろみ、モードを「新しいものの永遠回帰」として現出させるこのまどろみのただなかから、ひとつの夢として生まれたオペラである。マスネの『マノン』は、一個の商品としてのその脆さにおいて、ブルジョワたちの夢の暗部を、人間を内側から壊してゆく商品社会の非人間性を抉り出している。それは再びベンヤミンの言い方を借りるなら、近代の一つの「原現象」と言えるかもしれない。それに対してプッチーニの『マノン・レスコー』は、近代の──今や古びてしまったと言わざるをえない──「オペラ」の一つの「原現象」と言うべきオペラなのである。

[2003年9月]

解き放たれた色を求めて

■解き放たれた色を求めて:「ドイツ表現主義の芸術」展におけるノルデとカンディンスキー

色とは、つねにある何かの色だろうか。ある事物がそのときの光の受け具合などによって帯びる一つの性質なのだろうか。いや、色そのものはむしろ形態からの離脱において初めて出現するのではないか。もしかすると、人間の認識が捉えた事物の輪郭から解放される瞬間にこそ、一つの色は、その色自体の光彩を帯びて立ち現われてくるのかもしれない。カンディンスキーの試みが代表するように、現実とされてきた具象的な形態から解放されることを目指した二十世紀の絵画が見せる色彩は時に、色そのものをめぐるこのような考えを誘う。

もはや何の色でもない色、その誕生の瞬間を捉えているかに見えるのが、ドイツ表現主義を代表する画家とされるエミール・ノルデの描く「花と雲」 (»Blumen und Wolken«, 1933) である。そこでは、ヒナゲシのような赤い花の赤も、スイセンの花の黄色も、画面の左端に揺れる無数の青い花──ヒヤシンスだろうか──の青も、花の形態を逸脱しながら、それぞれの色自体の輝きを放とうとしている。北方の暗い空を流れる雲のどこまでも崩れゆく動きに誘われるかのようにして。

このように、人間が見て取る形態が崩壊する瞬間に誕生する色彩は、ノルデにとって、人間の認識を逃れゆく真に自然であるものの蘇生を告げるものなのかもしれない。「花と雲」の二十年ほど前に描かれた「秋の海」連作の一枚 (»Herbstmeer IX«, um 1910) に見られる、沈んだ、あるいは昇ろうとする太陽が北の海の暗い水面に残した、揺らめく赤い光もまた、人間がけっして飼い馴らすことのできない自然の胎動を暗示するかのようだ。北ドイツの寒村に生まれ、この故郷を愛したノルデ──この画名「ノルデ」は故郷の村の名である──は、そのような自然にどこかで通じていたのだろう。そして彼はこの自然を、形態の崩壊する瞬間に輝き出る色において延らせようとしていたのではないか。ノルデのいくつかの絵を見るとき、彼はこの、もう何の色でもない色を、真に自然であるものの場として追い求め続けているように思われるのだ。このような自然の象徴としての色彩の追求は、ノルデより25歳年下のヴァルター・ベンヤミンが第一次世界大戦中に残した色についての省察を思い起こさせるものでもある。

色というものは、何かに付随して美しく現われるのではなく、それ自体として美しいと若きベンヤミンは述べている。そして彼によると、色そのものの美は、色が「彩りを帯びてみずからを差しだす」ところにある。とはいえ「色は見られなければならない」。みずから立ち現われてくる色とその美も、人間がそれを見届けるところのほかには存在しないのである。では、そのような色を見るとはどういうことなのか。ノルデによる色彩の追求は、そのまま色とその美を見ることの探究でもあったはずである。それが彼に事物の形態の崩壊を画面に描き込ませたのではないか。形態の崩壊とは同時に、認識という仕方で見ることの瓦解である。ノルデは、それを潜り抜けることで、所有し、支配することのできない自然の場を、見ることのうちに切り開こうとしたのではないか。ここで見るとは、描くことであり、それはまた認識の輪郭から色を解放することにほかならない。

ところで、解き放たれた色において現われる、所有するまなざしを逃れゆく自然が、人間の身体にも宿っていることもノルデは見て取っていた。「女と男」 (»Weib und Mann I«, 1919) と題された一枚の絵では、燃え立つような赤い髪の女が右腕を自分の首に絡ませて、傍らで女の裸体を淀んだ眼で眺める男のほうへぐっと身体を寄せながら、絵を見る者にも、その乳房と腹部を挑むように突き出している。見せることによってその猛々しさを露わにする肉体、それは「女性美」のかたちを歪め、その輪郭をはみ出してゆく。そのような自然さを、皮肉なことに「女と男」の関係のうちに浮かび上がらせるのも、ノルデの色彩の蠢きなのである。

こうしたノルデの絵に出会ったのは、大阪のサントリーミュージアム天保山で開かれた「ドイツ表現主義の芸術展」においてであった。この展覧会は、キルヒナーをはじめとする芸術家集団ブリュッケの画家たちと、ワシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクを中心とする「青騎士」誌に集った画家たちの作品を軸に、ドイツ表現主義の絵画を展望するものだったけれども、そのなかでノルデのいくつかの絵とならんで色彩の力を見せつけていたのは、やはりカンディンスキーの諸作品である。とりわけ「万聖節」 (»Allerheiligen I«, 1911) と題された一枚においては、最後の審判のそれを思わせる黄色のラッパに呼び覚まされるようにして具象的な形態を逸脱しながら沸き立ち、あたかも画面から飛び出してくるかのような色彩の交響が、終末論的なヴィジョンを呈示している。聖人たちの霊魂が甦り、集う万聖節、それをカンディンスキーは、すべての生命が甦る日と捉えているのだろう。そして、事物の輪郭から解き放たれた色はここで、生命の復活を、その動きを象徴するものとなっているように見える。その運動は、「万聖節」の画面のなかでは重力からも解放されて渦巻いている。とはいえ、そこにあるのは単なるカオスではない。画面はあくまでひとつのヴィジョンヘ向けて、あらゆる生命の復活のヴィジョンへ向けて構成されていると言える。この構成は、マレーヴイチら同時代の構成主義者たちの幾何学的構成、認識という仕方で見ることを要求する構成からは遠く隔たったものである。カンディンスキーの構成はむしろ、聴くことへいざなう。それはやはり、たんに見えるだけの現実から解き放たれたさまざまな色の響きあいを産み出すような「コンポジション」、ひとつの作曲ではないだろうか。「万聖節」を前にしても、天使のラッパの音楽とともに、三和音の秩序から解放された音楽の響きが沸き立つのを、色彩の動きから聴き取らずにはいられない。そして、色彩のこの無調の響きこそがここで生命の復活を象徴しているのかもしれない。

この「万聖節」に見られるようなカンディンスキーの終末論的なヴィジョンとは、展覧会カタログの解説によると、科学主義的で物質主義的な西欧近代の崩壊と、それを超えたところにある新たな時代の到来とを暗示するものである。そして画面には、こうした新時代への期待がみなぎっているという。アフリカのものと思われる木の鉢とそれに盛られた果物を描いたり (»Holzschale«, 1910) 、水浴する女の裸体を描いたり (»Drei Badende am Meer«, 1912/20) するときキルヒナーの力強い筆致もまた、そうした期待に満ちていよう。一定の遠近法のもと、自然の事物を一つの輪郭のなかに押し込め、数量化して支配する、科学主義的な認識が人間をも支配するような社会構造に息苦しさを感じていた画家たちは、そうした支配としての認識が抑圧してきた根源的な自然を、その生命を、新しい芸術のうちに甦らせることが、新しい時代の到来につながってゆくことを予感していたのかもしれない。そして、とりわけノルデと抽象画へ向かおうとするカンディンスキーにおいて、この根源的なものの救済の場とされたのは、人間によって見られた具象的形態から解き放たれた色彩であったと考えられる。彼らにとっては、色の輪郭を逸脱する動きこそが、生命の復活を象徴するものだったのではないか。もしかすると、パウル・クレーがチュニジアへの旅で発見した色彩もまた、そのような解き放たれた色だったのかもしれない。

カンディンスキーは、このような根源的な生命の復活を象徴するような色彩は、徹底的な画面の構成を通じてのみ響き出てくると考えていた。彼は、人為的なもののうちにしか自然がありえないという逆説に耐え抜こうとしたのだ。おそらくこの点が彼を、ロマン主義的に理想化された原始的なものを直接的に描こうとしたブリュッケの画家たちから、あるいはマルクをはじめ、第一次世界大戦に社会構造の全面的な変革の可能性を見て、みずから戦地に赴いて斃れた画家たちから区別しているのだろう。従軍によって心身に傷を負った自分を措くキルヒナーの「夜の病人」 (»Kranker in der Nacht«, 1920/22) は、あまりにも直接的だった表現主義の挫折を告げているようにも見える。しかし、表現主義の運動のなかで続けられていた色彩の追求、解き放たれた色の追求は、彼のカンディンスキーによって、あるいはクレーによって、新たな仕方で引き継がれることになるだろう。その可能性は未だ汲み尽くされてはいない。

[2003年1月11日/サントリーミュージアム天保山]

Toward the Stillness

Toward the Stillness: Four Essays [1998]

 

■Im Freien

闇のなか、手探りでラジオを消した。船の汽笛が聴こえた。

鹿児島の私の家は海から離れた高台にあるのだけれども、夜になると港に停泊している船の汽笛が聴こえてくることがある。冬になるとそれはよりはっきりと聴こえてくる。

小さな望遠鏡で見る彗星のように、茫漠とした余韻を引きながら遠くへ響いてくる汽笛の音。それは港にあっては何かの合図なのかもしれないが、港からは遠く離れた私の耳まで届くとき、それはもう誰のためのものでもない一つの音になってしまっている。その音は人間の手を離れて、一つの物音として鳴っているのだ。夜の遠耳に聴こえてくるのは、そんな物音たちである。

夜、それは所有することの彼方にある音たちの時間である。昼の明るみとそこに行き交う視線から解き放たれて、さまざまなものたちがそれぞれの音を奏ではじめる。そのとき自分の音を立てるのは、なにも夜行性の生きものばかりではない。草木も、生命をもたない人工のものも、そして空気も、光のなかに聴こえるのとは異なった音を鳴り響かせている。こうした夜の音たちに耳を傾けているとき、たとえ体をベッドに横たえているときでも、私の耳は戸外にあるように感じられる。

夜の音たちは、眠りの前の身体が自らのうちに刻み込まれた記憶を繰り広げているところにも入り込んでくる。その音には、耳を戸外の静寂へと引き出す力が備わっているのではないだろうか。バルトークには「戸外にて」 (Im Freien: 1926) というピアノのための作品があるのだが、その第四曲「夜の音楽」では、夜の空気から湧き出てきたかのようなさざめきが、民謡ふうのメロディーを幾度となく中断し、再び闇のなかへ消え入ってゆく。こうして戸外の空間から聴こえてくる音によって記憶の歌が遮られるとき、耳は不眠の床を離れて、昼の喧噪のなかでは塞がれていた自らの感受性を再び見いだすことだろう。耳は外へと開いて、解き放たれた音たちを聴く。今やそれは、人間によって所有された音の意味するところに従って、身体を定められた振る舞いへ駆り立てたりすることはしない。

夜の音楽、それは不眠の苦しみを取り除きながら、私を眠りからさらに遠ざける。

だが、音たちとの対話のなかで苦しみが和らぐのも、鹿児島の家にあっては、虫たちが地中で息をひそめている間だけである。夏に聴こえる音はあまりにも力強い。漲る生命が耳を突き刺してくることもある。そんなとき、私はラジオを点けることにしている。深夜にラジオから聴こえてくる音、──どれを聴くかにもよるのだけれど──それは私にとって、耳を遠くへ、あるいは遠く過ぎ去ったものへ誘う音である。

夜の音は遠くから響いてくる。それをどのように聴くことができるのだろうか。一つの言葉として。そうかもしれない。だが、その言葉とは、近くに満ち溢れているものとは異なった一つの言葉であるはずだ。では、遠くで呟かれる言葉として聴き取るとはどういうことなのだろう。

もしかしたら、遠くの音たちが聴こえてくるひと時こそが、静寂というものなのかもしれない。この夜の静けさはいま、昼によって絶えず浸食されている。昼、騒々しい人間たちの時間。

夜の音たちを聴き取ることで、夜の空間を、遠くからの音が聴こえてくる空間を切り開くことができるだろうか。そこにはおそらく、もうひとつの言葉が、ひとつの歌に結晶するかもしれない一つの言葉が必要だろう。そして、その言葉には、武満徹の言う「〈沈黙〉と測り合えるほどに、強く少ない音」が具わっていなければならないように思われる。

まだそのような言葉には遠いところにいる私は、ひとつの「充実した沈黙」を経験するところから始めたい。もっと耳を澄ますこと。耳を澄ますときにしか静けさはないのだから。

 

■Hommage à Sandor Végh

舞台袖から出てきたのは直角近くまで背中の曲がった老人だった。彼は突き出た腹に顎を載せるようにしながらよちよちと歩いて、普通の人のたっぷり三倍の時間をかけて舞台の中央までたどり着き、コンサートマスターの肩を借りてようやく指揮台の上に据えられた椅子に落ち着いた。そしてひと息ついてから、彼はおもむろにタクトを持たない右手を振り下ろした。すると、今まで経験したことのなかったモーツァルトの空間が静かに開かれるのだった。

この不思議な老人、シャーンドル・ヴェーグのことを知ったのは六年ほど前のことである。きっかけは一枚のコンパクト・ディスクだった。それに収められているバルトークのディヴェルティメントやベルクの抒情組曲の演奏に、私の耳は引きつけられた。あらゆる音が新たな命を吹き込まれたかのように脈打っているのが、澄み切った響きのなかから聴こえてきたのである。後に私は、FMで放送されていたザルツブルク音楽祭の「モーツァルト・マチネ」で、ヴェーグがモーツァルトやハイドンの作品も取り上げていることも知った。彼の手にかかると、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のような作品でさえ、すべての手垢を落としたかのような清冽な響きを取り戻し、これまで「モーツァルト」の情緒のなかに埋もれていたリズムの躍動を示すのである。それも一つの形式を失うことなく。一昨年の冬、「モーツアルト週間」の時期にザルツブルクを訪れた目的の一つは、そうしたヴェーグのモーツァルトを聴くことだった。

彼の指揮するザルツブルク・カメラータ・アカデミカの演奏会で聴いた、あの有名なト短調の交響曲は、この作品にこびりついている人間的な、というよりもちょっと俗っぽい感傷からまったくかけ離れた風景を繰り広げていた。その風景は、これまで気づかなかった一つひとつの音の相貌や音と音との関係が、空間の透徹した広がりのなかに聴き取られるような静けさによって貫かれていたと思う。フィナーレのアウフタクトで始まる二小節の間にある音楽、こうしたものこそ、「疾走する悲しみ」のような言葉の騒々しさが覆い隠してきたものではないだろうか。

この静けさが夜のそれであることがはっきりと示されたのは、フィナーレの展開部へと移るところだった。空間を裂くようなトゥッティのユニゾンが奏き切られた後に一瞬の間隙があったのだが、このふとしたパウゼが、どこまでも深い闇を開いたのである。そこから聴こえてくる薄明のような木管の和音は、闇の深さに慄くかのような主題の転調を引き出していた。この闇のなか、初めの二つの楽章でしばしば現れる、二つの細かな音の連なりが遠くで閃いていたのだ。アンダンテの楽章においてそれは、湧き起こる感情を噛みしめるかのようなフォルテがやがてひとつの歌へ昇華するのに応答するのである。ヴェーグがこの演奏を通じて呈示していたのは、主題をなす歌と、それにさまざまなかたちで関わる音たちが、出会いの瞬間に一つの風景を開くようにして響き合う姿だったのだろうか。そこにある自然な息遣いの交錯は、さまざまな風景が開かれる空間の無限の広がりを暗示していたのかもしれない。ザルツブルクの演奏会場の客席で私は、その空間が遠くの音たちを透過させる夜の澄んだ空気で満たされているのを感じていた。

このト短調交響曲の最初の主題は、今までに聴いたどの演奏よりも慎み深く歌われていたのだけれど、それを奏でるヴァイオリンの音は、どこかヴェーグ自身のヴァイオリンの音に似ていた。その透徹した響きは、静謐さに貫かれた空間へ聴き手を導くものであった。

 

■Deux impromptus

ポール・クローデルは、『眼は聴く』という題をもった本のなかで、オランダの絵画についてこう語っている。「それらのどれひとつとして、声高に語っているもののかたわらに、小声で言わんとしているあるものを隠していないものはない。」風景画をはじめとするオランダの絵画は、微小なものたちに言葉を与えるために、あれほどまで細密に描かれているのだろうか。「それを聞き、言外のものに耳を傾けることこそ、われわれの義務である。」このようにクローデルは、オランダの絵画を見る人々に、一瞬を描き取ったタブローがその細部から語りかけてくるものを聴き取る耳をもつことを求める。だが、この耳はどのように聴くのだろうか。

微かなものに耳を澄ますとき、そこにはひとつの充実した沈黙があると思う。この沈黙のなかで耳は、聴こえてくるものにただ身を委ねる受容の器官であることはできないはずだ。

充実した沈黙のなかにあるのは、微かに聴こえてくるものたちとの対話であろう。この対話は、やがて沈黙を突き破って、聴き取られたものを言葉にもたらし、光のなかに取り出すのではないだろうか。私は、画家の眼もそのような対話をおこなっていると思う。

静寂のなかで耳を澄ますとき、ひとつの微細なものが他のものたちと響き合っているのを聴き取る言葉が、光を求めて動き始めているのではないだろうか。その言葉とは、遠くから聴こえてくるもの、そうして耳をとらえるものに応答する対話の言葉だと思う。オランダの風景画において細部の光彩──事物の光彩とは、それが他のものと響き合う瞬間を示すものであろう──が緻密に描き出されているのを見るとき、私はそうした言葉が画面の上に結晶しているのを感じる。

ところで、カンディンスキーには「即興」 (Improvisation) という標題をもつ作品がいくつもあるのだが、それらを見るとき、世界のなかから語りかけてくるものと画家の眼差しの静かな対話から、光の言葉とでもいうべきものが、まさにその対話のなかからしか出てこない「即興的な」ものとして取り出されているのを感じる。この標題にふさわしい闊達な筆遣いにおいて。その筆遣いはまた、絶えず過ぎ去ってゆく時間のなかにおかれた画家の身体が、対話のおこなわれる一度限りの瞬間をカンバスの上に描き取ろうとする所作を示すものなのかもしれない。

「即興」というタイトルは、カンディンスキーにとって、現実に準拠した制作から自らを解放するものであったようだ。確かに、いまだ具象性を残している画面上のさまざまな形象は、ある事物や人物としての特定の現実性からは解放されているといえよう。そして、ここで形象をそうした制約から解き放つのは、画家によって表出されているその色彩であるように見える。だが、いまだ具象的なものをその内部から解放している、ひとつのモティーフのなかの鮮やかな色の配置は、ある種の「現実」よりもっと現実的なものと語り合う思考がはたらいているのを感じさせずにはいない。ある瞬間に、実在するものの細部でさまざまな色が響き合っているのを、色の厳密な配置においてとらえる思考なしには、そのような「即興的な」色彩の表出はありえないと思われるのだ。そうした色と色の響き合いをとらえることを、カンディンスキーは「内面化」と呼んでいたのだろうか。

もしかしたら、「即興」とは、本当はきわめて厳密なものなのかもしれない。

即興の厳密さ。このことをあらためて強く感じさせてくれたのは、内田光子によるシューベルトの即興曲の演奏だった。考え抜かれた即興というものがあるとするなら、それこそがこの演奏から聴き取られるものであろう。いたるところで聴かれるふとしたルバートやテンポのわずかな揺れ、転調に伴う微妙な音色の変化といった動きのうちに、厳密な思考の跡が感じ取られるのである。その思考とは、楽譜のなかから聴こえてくるものに応えるひとつの対話であろう。

耳を澄ます思考としての楽譜のレクチュール、それは一つの響きにおいて思い浮かべられる音楽に身を委ねることではない。耳を澄ますとは、むしろそうした想像を可能にするような、書かれた音符を覆うイメージを突き破るものであろう。それを突き抜けたところではじめて鳴り響いてくるものがあることを、内田光子の演奏ははっきりと示している。そうしたものを聴き取る思考、それは歌の息遣いを疎外するものではない。むしろ、静かなこだわりをもって読まれた楽譜のなかから聴こえてくるものに応答する思考は、沈黙を破るいくつもの歌に結晶するのではないだろうか。一つひとつが、こうであるほかはない、という厳密な息遣いをもった歌に。こうした歌の数々がひとつの演奏のなかで、鮮やかな光彩をもったモザイクのようなものを形成するのかもしれない。

内田光子による「即興曲」の演奏のうちには、例えば主題が回帰してくるときに、身体を媒体としたひとつの歌の想起がそこにあることを感じさせる瞬間がある。その瞬間に聴かれる、時の移ろいのなかにおかれた歌、これも彼女の厳密な即興による歌である。
厳密な即興のうちにあるもの、それは一つの回り道だと思う。そして、この回り道を静かに歩むことを通じてはじめて取り出されるものが確かにあるのだ。

 

■Toward the Sea!

四歳のころから小学校に上がるころまで、私はどこへ行くときにもたいてい魚の図鑑を携えていた。四歳か五歳の誕生日に、デパートの書店で『学研の図鑑・魚』をねだって、親ばかりか書店の店員までも困らせてしまった覚えがある。それを正しく読めるかどうかは問題ではなかった。魚の姿と名前を一致させ、その生態や分布を自分なりに頭に入れて、さまざまな魚たちが泳ぎ回る姿を思い浮かべるのに喜びをおぼえていたのである。

そんな幼いころの私にとって水族館に行くことは最大の楽しみの一つであった。日頃は想像のなかにしかない魚たちの泳ぐ姿をこの目で見ることができるのだ。沖縄の「海洋博覧会」に連れて行ってもらったときなど、大きな水槽で魚たちがのびのびと泳ぎ回っているのが見られる水族館に毎日行きたいとせがんで、また両親を困らせてしまったものだった。

水族館を訪れることは今でも好きだ。でも、どうして魚たちが泳ぐ姿を見るのが好きなのだろう。

大阪の水族館で、巨大なジンベイザメがゆったりと泳ぐのをじっと眺めながら、私は、武満徹が「海へ!」という彼自身の作品に寄せた言葉を思い出していた。「できれば、鯨のような優雅で頑強な肉体をもち、西も東もない海を泳ぎたい。」ジンベイザメ──それは鯨鮫ともいう──は、水槽の同じようなところをぐるぐると回っているだけなのだけれども、その泳ぎには何ひとつ迷いがないように見える。この迷いのない動きには、伸びやかな優雅さというものがあるのかもしれない。そして、この優雅な動きのある空間は、一つの静けさで満たされているのではないだろうか。

以前は引き締まった流線型の回遊魚の泳ぎに憧れていた。とりわけ、均整のとれた流線型をもつ鰹の泳ぎは、さぞかし美しいものだろうと思っていた。だが、ここ最近、そうした回遊魚たちの群れをなして同じ方向へ突き進む姿には、どこか付いて行けないものを感じる。むしろ今は、群れることのないエイの泳ぎに魅力を感じる。エイにもいろいろなものがいるが、私がとくに魅かれるのはトビエイというエイである。それは本当に滑空するように泳ぐ。この静かで伸びやかな動きに、私は憧れるのだ。

ジンベイザメと同じ水槽でトビエイが泳ぐのを見つめながら、自分がなぜ魚たちが泳ぐのを見ることに楽しみをおぼえるのか、少しずつ分かってきたような気がした。私もあのエイのように泳いでみたいと思う。自分が身を置いているこの世界で。だがあの迷いのない、ほんとうに伸びやかな泳ぎのための静かな空間が、いったいどこにあるというのだろうか。

おそらく私は、その空間を自分の手で切り開かなければならないのだろう。自分の手で、といったけれども、「西も東もない海」を泳ぎ回るものたちのような「頑強な肉体」というものを持たない私に残されているのは、たぶん言葉だけだと思う。今、私が求めているのは、静けさを切り開く言葉である。