佐伯祐三展「自画像としての風景」を観て

五月から六月にかけて、観ることを半ばあきらめていたいくつかの展覧会へ出かけることができた。その一つが東京と大阪を巡回していた佐伯祐三の回顧展「自画像としての風景」である。東京ステーションギャラリーでの会期に東京に滞在することがあったものの、東京都美術館でのエゴン・シーレ展──その批評をMercure des Artsに寄稿した──を観覧した後では、佐伯の絵画に向き合う時間も余力もなかった。その頃、大阪へ出かける機会がありそうになかったので、「自画像としての風景」展を見逃してしまうことを残念に思っていた。ところが、中之島美術館での会期の終わり近くに、思いがけず大阪に立ち寄ることができた。

佐伯祐三の回顧展は、すでに15年前に大阪市立美術館で見ている。佐伯の没後80年を記念して開催された「佐伯祐三展──パリで夭逝した天才画家の道」(2008年から翌年にかけて大阪、高松、札幌、新潟を巡回)である。その際に展観された作品と、中之島美術館の開館一年を記念して催された今回の展覧会に出品された作品はほぼ重なっているが、後者を観覧して佐伯の絵画の像とそれに対する興味がより明確になった。家族や友人に送った手紙などの資料をふんだんに織り交ぜられていたので、佐伯の画業が、その生涯のなかに浮かび上がっていたことと、ほぼ彼の作品だけで展覧会が構成されていたことが要因だったように思う。

学生の頃、東京国立近代美術館のコレクション展で《ガス灯と広告》を見て以来、パリの街を描いた佐伯祐三の作品に興味を持ち続けてきた。汚れや損傷を剝き出しにした壁や塀の質感には、他の画家から感じたことのない、都市を形づくるものへの鋭敏な感受性が表われているように思われた。倉敷の大原美術館で見た《広告(ヴェルダン)》のように、広告塔が前面に押し出されるところからは、こうした独特の感性と同時に、アカデミックな絵画の美意識に対する反抗も感じた。それがモーリス・ド・ブラマンクに「アカデミック!」と一喝された自己を絶えず乗り越えようとする試みでもあったことを知るのは、もう少し後のことだった。

塀や塔に何枚も重ねて貼られた広告のポスターに、あるいは建物の壁にじかに書かれている文字が踊っているのにも魅力を感じていた。その独特のリズムは、速度を感じさせる都市の脈動と一つであるように思われた。そのように、佐伯が描く都市風景においては、それを織りなす人造の物たちがみずからの言葉を語り始める。今回の中之島美術館での回顧展においては、その言語の生成過程を辿ることができた。その一段階として、一時帰国した時期に屋外での写生を重ねたことの意義が、とくに強調されていたように思う。確かに、港に停泊している船を綿密に描いた《滞船》の連作は、佐伯の独特の関心を示して興味深い。

そこでは、帆柱に吊るされた数えきれないほどの綱の線が海風に吹かれながら独特の運動を示している。それは、甲板の上の装備品や荷物の配置と呼応しながら画面にリズムを与えている。やや重暗い水面の波の上に浮かぶ白い船の像も鮮やかだ。展示室に掲げられていた解説にも記されていたように、停泊する船を、帆綱を焦点に続けて描いたことが、二度目のパリ滞在時の線の運動の展開に結びついたのかもしれない。最初のパリ滞在時に、ヴラマンクの影響下で物質の光彩を探究したのが、船の線的な特徴の観察の積み重ねと相まって、佐伯独特のパリ情景が、物たちのリズムから繰り広げられるようになったのではないだろうか。

もう一つ、《滞船》の連作や、パリ時代の作品、とりわけ《コルドヌリ(靴屋)》などから特徴的に見て取られるのは、いったん綿密な習作を行なった後で作品を仕上げる、佐伯の慎重な手法である。同じ画題で同じ構図を描いた作品に、一見どちらが習作か見分けがつかないほど、緻密に描かれたもう一枚がある。それを積み重ねるなかから、「ピコン」という文字を大胆に浮かび上がらせた作品(《ピコン》)や、線路のガード下からどこまでも広がる街の奥行きを厳密に描き出した作品などが生まれたのだろう。後者の構図はよほど気に入ったようで、一時帰国時に下落合一帯の風景を描いた際にも導入している。

下落合とその近辺を描いた佐伯の作品で唯一魅力的に思われたのが、このガード下の街の広がりを描いた一枚である。未開発で、建物と建物のあいだに空が広がる下落合の風景を描いた一連の作品は、たしかに舗装されていない路面の質感などに対する佐伯独特の興味を感じさせる。しかし、絵としては間の抜けた印象を拭えない。これよりさらに痛々しく感じられたのは、佐伯が亡くなる1928年にヴィリエ゠シュル゠モランで描かれた一連の風景画である。自然の風景に向き合った絵では、筆が空回りしているようにも思える。自然は、佐伯を最後まで拒み続けていたのではないか。にもかかわらず、画家は草むらのなかでもがき続けたのだった。

新境地を切り開こうとしたこの「写生行」は、結局佐伯の命を縮めてしまった。そこから生まれた作品は、彼の絵が最も輝いていたのがそれに先立つ時期だったことを、皮肉にもそれによって際立たせている。その頃に書かれた作品では、街路と建物の外観だけでなく、建物の内部に、あるいはその中庭として広がる空間もリズムを示している。なかでもオテル・ド・マルシェのレストランを描いた一枚では、雑然と置かれた椅子とテーブルの配置が、独特のリズムとともに人の動きを感じさせる。そこには人間の行為の痕跡がある。料理の名称が記された札の文字も、手の動きの跡を示している。そのリズムが、佐伯にしか描けない絵を構成している。

佐伯祐三は、痕跡のリズムの画家である。《ガス灯と広告》では、道を通り過ぎる人も、街のなかへ溶け入っていくが、その行動が残す痕跡は、街の脈動の要素となる。これをはじめとする佐伯の代表的な作品がパリで生まれたのは1927年。ヴァルター・ベンヤミンがパリにたびたび滞在し、そのパサージュの記憶から近代の根源史を浮かび上がらせ、歴史そのものを捉え直そうとする構想を深めていた時期にあたる。この符合にも感慨を覚える。ベンヤミンとは異なり、佐伯が目を向けたのはパリの郊外だったが、そこにこそ浮かび上がる、消滅しつつある痕跡の動きを物質の触感とともに絵画のリズムに生かしえた点で、彼の絵画は唯一無二である。

このことと同時に、佐伯の絵画が道半ばだったことも思わざるをえない。中之島美術館の展示に関しては、その収蔵品を生かしたいう志向から、彼の生涯への目配りが利きすぎていて、彼の芸術の焦点が定まらない印象も拭えなかったが、その一方で、佐伯の画業が模索の途上にあったことにも目を向けさせる展示の構成と思われた。夭折の画家と言えば、昨年アーティゾン美術館でその作品を見た青木繁を思い出すが、たしかに佐伯は、青木のように「日本」の「絵画」を背負って画風を模索する必要はなかっただろう。しかし、どこか近代日本の「画家」であることを引き受けてしまった佐伯の自己は、街の風景に遊び続けることを許さなかったのかもしれない。