Chronicle 2014

ダニ・カラヴァン《初めに》(霧島アートの森)内部より

ダニ・カラヴァン《ベレシート(初めに)》(霧島アートの森野外展示)内部より

年の瀬にようやく寒さが落ち着いた感がありますが、今年の冬の寒さは例年になく厳しさで、12月中旬には広島でもかなりの雪が降り積もりました。すでに別稿で述べたとおり、それは息苦しい冬の時代の到来を告げるかのようでもあります。東日本大震災と福島の原子力発電所の重大事故を経て、日本列島の人々の暮らしは少しは身の丈に合ったものに変わるかと思いきや、二度の総選挙を経てこの国に残ったのは、救いがたくフラットで、目障りなほどに華やかさを装う「ニッポン」という虚像。この自己慰撫と他者への憎悪によってのみかろうじて維持しうる華やかさを増殖させるために、今や放射能の深刻な脅威が、日本列島の全域に実際に迫りつつあります。そして、そのキッチュなきらびやかさと表裏一体の排他的な歴史修正主義は、暴力の歴史の犠牲になった人々の尊厳を奪いながら、日本列島に生きる人々の世界的な信用を損ねています。

人々の生を資本に売り渡して圧殺する「ニッポン」という神話の暴力に抗して、まずアジアの島々の連なりのうちに息をつく余地を探ることが、どうやら来たる年の課題になりそうです。そのために、これまでにも増して地に足を着けて哲学することが求められるように思われてなりません。そこで来年はまず、被爆70周年を迎える広島の記憶を、その複数性と世界性において再考し、その痕跡と証言を今ここで見届け、聴き届ける可能性を考えてみたいと思います。今年夏に起きたイスラエル軍によるガザ地区の人々の虐殺も連なる暴力の歴史を見通し、それを食い止める可能性へ向けて、ヒロシマの記憶は継承されるべきではないでしょうか。そして、その理論をもう一つの歴史、「国民」の名の下の暴力の歴史の残余から描き出される歴史の概念に結びつけていくのが、次なる課題となることでしょう。

そのためにも、先頃批判版のテクストが刊行されたヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」を読み直すことが急務と思われます。その足がかりとして、今年の夏、奇しくもベンヤミンの誕生日に当たる7月15日に、学位論文を基にした著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を平凡社から上梓することができました。そのためにご尽力くださった編集者の関正則さんと安井梨恵子さんに、あらためて心から感謝申し上げます。幸い拙著は、各方面で温かく迎えられているようで、すでに二つの書評が公にされ、一千人近い読者を得ています。また10月11日には、西南学院大学で拙著の合評会も催していただきました。その実現にご尽力くださった田村元彦さんと行友太郎さんに感謝申し上げます。

この合評会の場でも拙著に素晴らしいコメントをくださった森田團さんには、『週間読書人』紙の12月5日号に、「研究の大きな道標に──言語と歴史をめぐる思考の内的な連関を解釈する可能性を指し示す」と題する濃密な内容の書評をご寄稿いただきました。拙著の意義とアクチュアリティを緻密に読み解いたうえで、ベンヤミンの問いを受け継ごうとするモティーフまで汲んでくださっています。また、インパクト出版会の『インパクション』第197号には、細見和之さんによる拙著の書評「『歴史の天使』は破局に満ちたこの現在にあくまでとどまろうとする」が掲載されています。拙著のベンヤミン受容史における位置、彼の言語哲学と歴史哲学を接続させる議論の意義と射程などを明らかにするとともに、今後課題とすべき点もしっかり指摘した、非常に充実した内容の書評と受け止めております。これらを励みに、上に記したような課題に取り組むべく、研究に精進したいと思います。

今年も、講義と大学の公務と家事の合間を縫って研究と執筆を続ける日々が続いたわけですが、そのなかで、11月にバイエルン国立歌劇場で観たベルント・アロイス・ツィンマーマンの《軍人たち》をはじめ、素晴らしい音楽や舞台に触れられたのは大きな喜びでした。また、細川俊夫さんのモノドラマ《大鴉》の広島初演へ向けた日本語字幕制作や、武生国際音楽祭などでのレクチャーや演奏会をつうじて、音楽と言葉の関係について、実際に作品に触れながら考える機会を持てたことも刺激的でした。そして、私も「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌」という報告をさせていただいた12月下旬の原爆文学研究会は、あらためて詩を生きることの可能性を実感する貴重な機会となりました。詩を生きることの分有のためにも、言葉そのものをさらに掘り下げなければと思います。

以下に記すように今年一年の公的な活動を振り返ると、たしかに今年の前半はさまざまな仕事が積み重なって、相当に忙しかったことが分かります。そのためもあって、7月初旬に橈骨神経麻痺を発症し、2か月強にわたり利き手の右手が不自由な生活を余儀なくされました。おかげさまで今はほぼ何の問題もなく右手を使って仕事ができていますが、長いリハビリの日々は、生活観をかなり変えることになりました。以前は一顧だにしなかった筋力の強化のため、週二回ほどジムに通って、ウェイト・トレーニングとスイミングに取り組んでいます。その成果もあって基礎体力はいくぶん向上しました。引き続き体力の強化に努めながら、地道に仕事に取り組んでいきたいと思います。来たる年もよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。2015年がみなさまにとって少しでも平和で幸せに満ちた年になることを祈念しております。

■Chronicle 2014

  • 1月31日:細川俊夫さんの《星のない夜──四季へのレクイエム》の広島初演が行なわれた広島交響楽団第335回定期演奏会のプログラムに、プログラム・ノートを寄稿しました。この大規模な声楽作品《星のない夜》が、ゲオルク・トラークルの詩をつうじて、四季の循環とそのなかの生々流転を描きながら、広島への原子爆弾の投下とともに、ドレスデンへの空襲を想起する作品であることに触れたうえで、その構想の重要な契機となったのが、パウル・クレーの《新しい天使》とその絵に寄せられたテクストであることにも論及しています。《星のない夜》という作品全体の特徴を紹介し、この作品を、過去を想起するよう促す裂け目を含んだ新しい暦と特徴づけました。併せて、モーツァルトのフリーメイソンのための葬送音楽とヨーゼフ・マルティン・クラウスの交響曲嬰ハ短調の特徴も紹介しています。
  • 2月7日:同日付中国新聞29面に、「佐村河内守作曲」とされてきた作品の作曲者偽装問題について、「作品批評の在り方検証を」という論考を寄稿しました。「交響曲第1番HIROSHIMA」をはじめとする楽曲が別人の作曲によるものであったことが判明したことを受けて、その音楽自体を批評にもとづいて紹介するのではなく、耳が聞こえないなかで作曲する「現代のベートーヴェン」の神話だけを独り歩きさせてきた音楽業界とマス・メディアのあり方を批判し、そのイメージ戦略に乗って美談の消費に流れ、広島では「市民賞」を授与するにまで至った音楽文化のあり方に警鐘を鳴らす内容のものです。
  • 3月7日:学位請求論文「ベンヤミンの言語哲学──翻訳と想起」により、上智大学より博士(哲学)の学位を授与されました。この論文は、7月に刊行される著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社)の基になった論文です。本にするにあたり、終章を中心にかなり改稿しました。論文要約が上智大学学術情報リポジトリに掲載されています。
  • 3月20日:広島大学総合科学研究科人間存在研究領域人間文化研究会編『人間文化研究』第6号に、「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」が掲載されました。2013年7月23日に、ポーランドのクラクフで開催された第19回国際美学会 (19th International Congress of Aesthetics) において英語で発表した原稿 (Toward the Poetics of Echo: From Revisiting the Image of “Echo” in Walter Benjamin’s Writings) のもとになった日本語の草稿を改稿したものです。ヴァルター・ベンヤミンの著作、とくに「翻訳者の課題」と「歴史の概念について」に見られる「谺(こだま:Echo)」の形象を批判的に検討するとともに、それが示唆する美的経験を、パウル・ツェランや原民喜の詩的作品のうちに見届けながら、「アウシュヴィッツ」や「ヒロシマ」以後の詩的表現の可能性とともに、いわゆる「表象の限界」を超える歴史的想像力の可能性を探っています。
  • 4月1日:丸川哲史さんの著書『魯迅出門』(インスクリプト、2014年)の書評「転形期における魯迅の『文』の探究を世界的な文脈へ解放する」が、『情況』3・4月合併号に掲載されました。魯迅の文学を、従来の魯迅研究などから解放しつつ新たに読み解き、そこに世界史を自主的に構成する道の模索を見て取ろうとする本書の特色を、魯迅の「文」の探究を中心に論じています。この「文」の探究を、中国を越えて同時代の文学における「文」の試みと接続させることによって、魯迅を読み直す新たな、世界的な文脈を開いている点に光を当てるとともに、それによって魯迅とヴァルター・ベンヤミンの同時代性が浮き彫りになっている点に注目しました。
  • 4月〜7月:広島市立大学国際学部の専門科目として、「共生の哲学I」、「社会文化思想史I」、「多文化共生入門」の講義、「発展演習I」、「卒論演習I」、オムニバス講義の「国際研究入門」を担当しました。「国際研究入門」ではコーディネーターも務めました。大学院国際学研究科の「現代思想I」では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(月曜社)を講読しました。全学共通科目として、「世界の文学」の2回の講義と「平和と人権A」の1回の講義を担当しました。広島大学では教養科目の「哲学A」の講義と「戦争と平和に関する総合的考察」の2回の講義を、日本赤十字広島看護大学では「人間の存在」の講義を担当しました。
  • 6月7日:広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン」事業の出張講座として、広島市映像文化ライブラリーにて「迷宮としての映画──ヴォイチェフ・イェジー・ハス監督『サラゴサの写本』」と題する短い講演を行ないました。ポーランド貴族ヤン・ポトツキが1804年から1805年にかけてロシアのサンクトペテルブルグで秘密出版した幻想的な小説『サラゴサ手稿』を原作とするハス監督のこの1965年の作品の映像美は、ルイス・ブニュエルをはじめとする世界中の映画監督を魅了してきましたが、そこではナポレオン戦争時代のスペインのサラゴサで一人の将校が偶然手に取った一冊の古い写本のなかで回想が別の回想を呼び、物語がいつ果てるともなく連なっていき、さながら映画そのものが迷宮と化すかのようです。今回の講演では、ハス監督の傑作をポトツキの小説とともに紹介しながら、この迷宮としての映画の魅力に迫りました。
  • 7月1日:広島芸術学会の『広島芸術学会会報』第128号に、「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」という劇評が掲載されました。5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによる公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台と紹介しています。
  • 7月12日:『図書新聞』第3166号に、「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」と題するーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評が掲載されました。ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的研究を読み解き、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介するものです。
  • 7月15日:著書『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を平凡社より上梓しました。先に上智大学に提出された博士論文を改稿したものです。言語の本質を探究するベンヤミンの哲学的思考を、彼が生涯の節目ごとに著作のうちに描き出した天使の像に結晶するものと捉えつつ、そのような思考を、初期の言語論「言語一般および人間の言語について」から、遺稿となった最晩年の「歴史の概念について」に至るまで貫かれる思考として読み解き、ベンヤミンの思考を独特の言語哲学として描き出そうと試みるものです。本書は、言葉を発すること自体を「翻訳」と考えるベンヤミンの着想に注目しつつ、それが深化される過程を辿ることによって、言語そのものが、共約不可能な他者と呼応し合う回路を切り開く力を発揮しうることを示しています。さらに、過去の出来事を一つひとつ想起する経験のなかから、神話としての「歴史」による抑圧を乗り越えて新たに歴史を語る可能性をも、言語そのものから引き出そうとしています。もう少し詳細な内容と目次については、別稿をご参照ください。
  • 9月27日:9月27日と28日にアステールプラザ大ホールにて開催された、ひろしまオペラルネッサンスのビゼー作曲『カルメン』の公演のプログラムに、「掟を知らない自由を歌うオペラ、その掟破りの新しさ──ビゼーの『カルメン』に寄せて」と題するプログラム・ノートを寄稿しました。『カルメン』というのオペラの時代に先駆けた、かつ当時のオペラの慣習を破る新しさを紹介し、まさにそうした掟破りの新しさによって、けっして掟に縛られることのない、かつ身体的に生きられる自由が表現されていることを、時代背景などに目配りしつつ描き出すものです。
  • 10月〜2015年2月:広島市立大学国際学部の専門科目として、「共生の哲学II」、「社会文化思想史II」の講義、「発展演習II」、「卒論演習II」を担当しています。大学院国際学研究科の「現代思想II」では、カントの『判断力批判』の美と崇高の分析論を講読しています。全学共通科目として「哲学B」を担当しています。広島大学の教養科目「哲学B」の講義と、広島都市学園大学の「哲学」の講義も担当しています。
  • 11月16日:広島平和文化センターの主催による「国際交流・協力の日」の催しとして行なわれた広島市立大学国際学部の公開講座「大衆文化を通じた国際交流──世界各国における日本の大衆文化・日本における世界の大衆文化」の司会を務めました。
  • 12月21日:九州大学西新プラザで開催された第46回原爆文学研究会「戦後70年」連続ワークショップIV「カタストロフィと〈詩〉」 のパネリストとして、「アウシュヴィッツとヒロシマ以後の詩の変貌──パウル・ツェランと原民喜を中心に」と題する研究報告を行ないました。テオドーア・W・アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」という言葉を、その文脈から跡づけ、そこに含まれる問いを取り出したうえで、それに対する詩の応答の一端を、原民喜とパウル・ツェランの詩作のうちに求め、そこに含まれる詩の変貌ないし変革に、破局の後の詩の可能性を見ようと試みるものです。

小旅行と近況の報告

早いものでもう桜が咲き、学期の始まる四月がやって来ます。今年の二月から三月にかけても、原稿執筆などの仕事で非常に慌ただしく過ごしていたのですが、幸い三月の下旬になって仕事がひと段落しましたので、家族と小旅行に出かけました。先日は、車で奥出雲と飯南を回って、八岐大蛇の伝説で知られる須佐之男命ゆかりの神社を二社訪ねました。どちらかと言うと家族の希望に従ってのことでしたが、中国山地から出雲、石見、そして隠岐島にかけては、まつろわぬ神々の痕跡がさまざまな形で残っているように思えて、この地域に対する関心を徐々に深めつつあるところです。

須佐神社本殿

須佐神社本殿

とくに印象深かったのが、出雲市の佐田町にある須佐神社でした。出雲風土記に須佐之男命の終焉の地として記されている場所に造営されたこの神社では、何と言っても大社造りの立派な本殿が目を惹きますが、それがうっそうと繁る木々のあいだに、少し隠れるように建っているのを眺めると、本殿の壮大さとこの地に積み重なった歳月の重みの両方が伝わってくるような気がします。この本殿が、樹齢千年を超えるという大杉の傍らに建っているのも、荒ぶる神の魂を鎮めるこの神社に相応しく思われました。

小旅行と言えば、三月の連休には、佐賀県の吉野ヶ里遺跡と大分県の日田市も訪れました。吉野ヶ里遺跡では、遺跡保存のあり方について大いに考えさせられましたが、その問題は、平和記念資料館の改築が始まった広島でも他人事ではない問題です。吉野ヶ里遺跡で見応えがあったのは、発掘当時の状態が屋内に保存されている墳丘墓で、当時の死者の弔い方を偲ぶことができます。この地域では、基本的に甕を二つ合わせるかたちで棺を作って、身体を屈めた遺体を埋葬していたようですが、そのさまは、カプセルを埋めるようでもあり、どこか胎内回帰のようでもあります。

三隈川の夕暮れ

三隈川の夕暮れ

日田では、水郷の風情とかつての天領の街並みを楽しむことができました。夕暮れ時、三隈川には屋形船が出ていました。個人的には、商家の立ち並ぶ街──あちこちで古い雛飾りを展示していました──よりも、水辺の風景のほうが気に入りました。日田の街で一つ興味深かったのが、咸宜園という、江戸後期から明治期にかけて開かれていた私塾の跡でした。廣瀬淡窓が1817年に開いたこの塾では、平等な教育と塾生による自治が徹底されていたことを、案内の方が熱心に説明してくれました。高野長英や大村益次郎らを輩出したことでも知られているようです。当時の多くの私塾同様、教育の中心に置かれていたのは漢籍の講読だったようですが、漢詩人だった廣瀬淡窓が、詩学を最も重視していたことは、あらためて見直されてよいことでしょう。詩的な作品を読み、あるいはみずから詩的な言葉を綴ることによって、他者への想像力を育むことが今、何にもまして求められているのではないでしょうか。

他者への想像力の重要性に気づかされたもう一つの機会として、五味川純平の小説『戦争と人間』にもとづく山本薩夫監督の映画の第一部を紹介する講演の準備過程がありました。大陸進出を企てる財閥の一族を軸に、群像劇のかたちで日本の侵略戦争の歴史を叙事詩的に描いたこの映画をDVDで見ながら、日本人の俳優が、中国や朝鮮の人々を実に生き生きと演じているのに、少し驚かされたのです。もちろん、俳優のあいだで演技にばらつきがありますし、そこにあるのはあくまで日本人のなかの他者像であるという限界があるとはいえ、演技そのものと映画の作り方から、竹内好が「方法としてのアジア」に綴ったような、個として生きている他者を内側から理解することへの熱意のようなものが感じられました。

もしかすると、そのような熱意にもとづく想像力の逞しさが、かつては映画そのものを形づくっていたのかもしれません。今日では、最近も起こった中沢啓治の漫画『はだしのゲン』をめぐる教育現場の出来事が象徴するように、大人が子どもたちの想像力の芽を摘むような行動を繰り返しているように思えてなりません。それとともに、硬直した、しかも何らリアリティを持たない虚像としての他者像だけが巷間に溢れるようになってしまっています。それに憎悪をぶつけることへの安易な共感が、「売れるコンテンツ」の消費とともに蔓延し、さらにそのことが戦争の可能性へ向けて動員されようとしているのを、他者に深く共感する力と、この自分を超えた存在に対する想像力を拓くことによって食い止めることは、文化に携わる者の喫緊の課題と思われます。

なお、山本薩夫の映画『戦争と人間』の第一部を紹介する講演は、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」として、2月23日の午後に広島市映像文化ライブラリーで行ないました。「映画から見つめる日本の戦争の歴史」と題して行なったこの講演では、当時のスター俳優を惜しみなく出演させて、さまざまな立場から日本の侵略戦争と関わった「人間」を浮き彫りにしたこの映画の魅力を、上述の点を含めてご紹介しました。それから、2月7日付の中国新聞には、「佐村河内守作曲」とされていた作品が新垣隆さんによる代作であったという問題と、それに伴って浮上した問題について、一篇の記事を寄稿[記事見出し:「作品批評の在り方検証を」]させていただきました。とくに、あらためて浮き彫りになった文化産業の問題は、上で指摘した問題とも通底するものでしょう。

さて、このように講演や原稿執筆などで忙しくしているあいだにも、素晴らしい音楽と舞台に触れる機会があったのは幸せなことでした。まず、去る2月11日に、大久保の淀橋教会の小原記念チャペルにて、鈴木俊哉リサイタルとして開催された細川俊夫さんのポートレイト・コンサートを聴きました。そこでは、リコーダー奏者の鈴木俊哉さんをはじめとする最良の理解者たちの素晴らしい演奏によって、細川さんの音楽の世界が見事に開かれました。その印象は、稿を改めて記すことにいたします。それから、3月12日には、新国立劇場で、コルンゴルトの《死の都》の新演出初演を観ました。何と言っても卓抜なアイディアに満ちた舞台が最初から最後までとても美しかったです。死んだ妻マリーの思い出の品が聖遺物のように聖櫃に収められているのが、中世から時間を止めたようなブリュージュの街の風景と重なるあたり、とくに魅力的でした。

主人公パウルが見ている死者の世界──そこにはマリーがいる、ということで彼女の亡霊が終始黙役で舞台に出ていました──を美しく描くことに力を入れたカスパー・ホルテンの演出は、全体的に作品の魅力を引き出していたように思います。歌手のなかでは、マリエッタ/マリー(の声)役のミーガン・ミラーが何と言っても素晴らしく、最初のリュートの歌も、最後の勝ち誇る生者の歌も圧倒的でした。それ以外の歌手も高水準の歌唱を聴かせていたと思います。惜しまれるのは、ヤロスラフ・キズリンクの指揮する東京交響楽団の響きがややまとまりを欠き、コルンゴルトの音楽のハッとさせるような音色の変化や、陶酔的な響きの魅力が今ひとつ伝わってこなかったことです。日本語字幕も、誰がどのような心境で語っているかをもう少し大事にした訳であれば、聴衆が作品の世界に入っていく手助けになったのでは、と自戒も込めながら申し上げておきたいと思います。とはいえ、全体としては、音楽的にも、舞台演出のうえでも、コルンゴルトの《死の都》が20世紀のオペラの傑作であることを実感させる初演でした。

最後に、私事にわたりますが、この三月に、「ベンヤミンの言語哲学」をテーマとする論文により、母校の上智大学より博士(哲学)の学位を授与されました。博士後期課程の三年を経てすぐに哲学科の助手になったことや、さまざまな曲折のなかで研究をまとめるのに時間がかかったことなどのために、博士号修得が今頃になってしまいました。昨今の騒動により、日本国内で得た博士号の価値は零落してしまっているのかもしれませんが、私自身はこれを一つの節目として、さらに研究に精進していきたいと思います。それから、学位論文を元にした本も、夏頃にはお届けしたいとも考えております。

第11回現代日本オーケストラ名曲の夕べ

[2010年11月2日/広島国際会議場フェニックスホール]

広島国際会議場フェニックスホールで行なわれた第11回現代日本オーケストラ名曲の夕べを聴いた。管弦楽は、広島交響楽団を中心に、全国から集まったオーケストラ・プレイヤーによって編成されたオールジャパン・シンフォニーオーケストラで、指揮は広響の音楽監督である秋山和慶。今回は、三人の広島出身の作曲家による「広島/ヒロシマ」に寄せられた作品を中心に、平和への祈りのこもった作品ばかりが集められた。とくに、糀場富美子の作品と細川俊夫の作品が同じ演奏会で響くことは、これまでめったになかったのではないか。それだけでも歴史的な意味のある演奏会と言えるのではないだろうか。私も、二人の作品を楽しみに私も聴きに出かけた。

最初に演奏されたのは、弦楽合奏のために書かれた糀場富美子の「広島レクイエム」。原子爆弾の閃光をイメージしたというトーン・クラスターの衝撃の余韻のなかから、沈痛なモティーフが低音から静かに、悲しみに身を捩らせる人々の姿が徐々に浮かび上がるかのように響いてくる。それがさまざまな楽器に引き継がれながら絡み合うのだが、そうして形成される音響は、バルトークの弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽の最初の楽章を思わせると同時に、武満徹の弦楽のためのレクイエムの悲しみに通じるものも感じさせるが、つねに包み込むような温かさを帯びている。被爆した死者たちの無念の思いや、生き残った者たちの苦しみを抱き止めようとする響きとでも言えようか。そうした包容性を含みながらも、糀場の音楽そのものはきわめて凝縮されたもので、緊張が途切れることはない。その緊張が、最初のモティーフが急激に密度を増すことで頂点に達するあたり、合奏にそれこそ心臓を鷲摑みにするような凝縮度が欲しかったし、急に音楽が静まる瞬間の音響の変化の機敏さも今ひとつであったが、オーケストラの弦楽器のプレイヤーたちは、全体的には力のこもった演奏で作品に応えていたと思われる。被爆した人々の心身に刻まれた痛みを全身で受け止めようとするかのような祈りに包まれた糀場の音楽を聴くことができた。

続いて演奏されたのは、北爪道夫のチェロ協奏曲。独奏を担当した広響の首席奏者マーティン・スタンツェライトの澄んだ音色が、作品に相応しく思われた。どこかシューマンの協奏曲のように、最初にチェロの独奏で長い「祈りの主題」が提示された後、シューマンの作品とは対照的に、透明感に満ちた、またつねに軽やかな管弦楽の響きが織りなされていく。その広がりに海を感じたのは私だけだろうか。聴きながら、最後まで日光の差す南洋の海の表層を漂う思いがした。たしかに澄んだ広がりをもった、そして旋律の豊かな北爪の音楽は、現代音楽には珍しくと言うべきか、軽みや清涼感を聴かせるものであろう。しかしながら、そのぶん逆に垂直的な力強さや密度には欠ける。それに旋律的なモティーフの結びつきも、内的な必然性を強く感じさせるものではない。下降する三つの音による「祈りの音型」がやや単調に繰り返されるのと相俟って、音楽そのものはだんだんと聴くのが退屈になってくる。後半は、音楽の構成がドビュッシーの「海」の第2楽章「波の戯れ」に酷似しているが、そこにあるような力動性は北爪の作品にはない。そのようななかでも、スタンツェライトの独奏は、旋律的なモティーフを魅力的に歌い切っていた。

休憩を挟んで、細川俊夫の「記憶の海へ──ヒロシマ・シンフォニー」が演奏された。最初の瞬間から響きの存在感に打たれざるをえない。大太鼓の重い音が間欠的に刻まれて曲が始まるが、その一音一音が必然性を帯びている。そして広島の人々の思いが六つの川から流れ込んだ海を表現する、弦楽器を中心とした管弦楽の響きの密度は、深い奥行きを感じさせずにはおかない。先の北爪の作品の海が、表層の水面の動きに還元されていたとするならば、細川がこの作品で表現する海は、内海の穏やかさと、朝日や夕日に映える美しさを保ちつつも、それ自体が深淵であり続けている。そのなかで、生命の源泉としての豊饒さと、広島の死者たちが流れ着く場所としてその記憶が澱のように積み重なる場所としての重さとが、相互に浸透しながら、どこまでも深く折り重なっていくように思われるのだ。そして、この海に沈潜するなかから、そこに源泉をもつ生命を破壊する力が、徐々に浮き彫りにされていく。広島の人々の生命を一瞬にして消し去った、あの力である。それが猛々しさを露わにする瞬間を含め、管弦楽には今一歩踏み込んだ表現と、強度に満ちた響きを求めたいところだったが、全体的には細川の作品独特の響きの存在感を、気配のようなものも含めて、ある程度はよく表現していたように思う。しかし、全体的にやや焦点の定まらない印象を受けたのは、指揮の秋山が作品を内的統一においては完全に捉え切れていないからなのかもしれない。それとは対照的に、最新作のオラトリオ「星のない夜」を初演したケント・ナガノは、不十分な点が残るとはいえ、作品を構造的統一性において見事に把握していた。なお、舞台上方に金管楽器のバンダを配して、響きの垂直性を際立たせる手法は、今回演奏された「記憶の海へ」とともに、今触れた「星のない夜」にも生かされている。ともあれ、海の深い静けさのなかから、人間の破壊的な力が姿を現わし、それが自分自身を破壊しながら海の静けさのなかへ再び消え入っていく一つの流れが、強い内的緊張によって貫かれているのを、実際の響きから感じ取ることができたのは喜ぶべきことであろう。

最後に演奏されたのは、佐村河内守が作曲した管弦楽のための「ヒロシマ」。今夜が世界初演とのことである。彼の音楽は、広島に捧げられた交響曲が初演されて以来世評が高いが、正直なところ私はまったく理解できない。たしかに、感覚的にはこれほど豊かな旋律性とリズムの推進力を兼ね備えた、かつ振幅の大きい作品を、一切の聴覚を失ったなかで──佐村河内は、35歳の時に聴覚を失い、またそれ以前からずっと激しい頭痛に悩まされているとのことである──構成しえたことには驚嘆を禁じえないし、そのことに対しては心からの敬意を払うべきだと思う。しかし、調性音楽と無調音楽のあいだを行き来するような音楽を、なぜ今ここで書かなければならないのか、その必然性を音楽のなかから聴き取ることはできなかった。聴きながら、例えばショスタコーヴィチとだいたい同時代の、また彼ほどの構成力をもたない作曲家が、社会主義リアリズムと新古典主義のアマルガムのように、このような交響的作品を、標題音楽として書いたかもしれない、などと妙な想像を繰り広げてしまうくらい、実は退屈させられた。静と動、強と弱の移り変わりも、ラプソディックとさえ言えないほど気まぐれに聞こえる。管弦楽のトウッティとともにテューブラー・ベルが打ち鳴らされるクライマックスには、赤面を禁じえなかった。こうした、恥ずかしいとしか言いようのない音楽を書く以前に、無調以後の音楽のテクスチュアを、そこにある論理を、心の耳で聴くことから始めてほしいと強く思わざるをえない。

このように、佐村河内の音楽には落胆せざるをえなかったとはいえ、糀場と細川の音楽の充実した内容は、聴衆に充分伝わったのではないだろうか。そして、冒頭にも述べたように、両者の作品の邂逅が広島で実現したことは、画期的な出来事とも思われる。これを機会に、二人の作品が定期的に、かつ海外の作曲家が「ヒロシマ」に寄せた作品とともに、繰り返し演奏されることを願っている。

[2014年2月13日の追記:上記の文章で「佐村河内守が作曲した」とされている作品は、周知のように、別人の手によって作曲されたものであることが先頃判明しました。したがって、「佐村河内守の音楽」なるものが存在しないことも明らかになったわけですが、2010年11月の時点では、私はそのことを知る術をまったく持ち合わせておりませんでした。現時点では、第5段落の1行目は、「佐村河内守が作曲したとされる」と、また第6段落の1行目は、「佐村河内の音楽とされているもの」としなければなりませんし、第5段落の聴覚の喪失に関わる記述も削除しなければなりません。以上のことをお断わりしたうえで、上記の文章は、未だ「佐村河内守」という虚構がクラシック音楽の演奏会に入り込んでいた時期の記録として──今となっては非常に気恥ずかしい表現があることも認めつつ──、当面そのままに残しておくことにします。]