ベルリン通信III/Nachricht aus Berlin III

[2016年7月5日]

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ベルリン植物園の睡蓮

六月と聞くとすぐに梅雨のじめじめとした気候が思い浮かびますが、ドイツの六月は、五月に茎を伸ばし、葉を繁らせた植物が、花を咲き誇らせ、果物などの最初の恵みをもたらす時期のようです。六月の初旬に、ダーレムにあるベルリン植物園を訪れましたが、睡蓮や薔薇などの季節の花の豊かさを堪能することができました。また、この時季に市場を訪れれると、実にさまざまな種類の果物が並んでいます。とりわけ桃の種類の豊富さには驚かされました。日本でも蟠桃として知られる平たい形の桃はとくに甘くて、家族のお気に入りとなりました。住まいのある家の庭の木には、今もたくさんの桜桃が生っています。そろそろ夏の暑さも顔を覗かせ始めて、下旬には午後から夕方にかけて気温が30度を超える日もありましたが、それ以外はおおむね15度から25度の範囲で気温は推移していています。

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蟠桃と家主さんに採ってもらった桜桃

さて、この六月はとても慌ただしかったです。月末には、こちらでお世話になっているベルリン自由大学哲学科のジュビレ・クレーマー教授のコロキウム(大学院生以上を対象とした定期的な研究会合)での小さな講演を、何とか終えることができました。こちらであらためてその研究に取り組んでいるヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学について、研究の初期の成果を「想起からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学」と題して発表させていただきました。ドイツ語での講演はまったく慣れないので、当然ながら、プレゼンテーションにもディスカッションにもたくさんの課題を残しましたが、関心を持って聴いてもらえたのは非常にありがたかったです。本質的な質問もいくつか得られて、内容的にはよい場を持てたので、これを理論的な端緒とする研究への弾みになりました。

ベンヤミンの「歴史の概念について」の批判版のテクストに取り組んでいると、彼がそのなかで、けっして恣意的には生じない想起の経験における死者との関わりを重視しながら、青年期以来一貫したモティーフを哲学的にいっそう深めるかたちで、彼自身が直面していた危機に応えうる歴史の概念を探究していることが伝わってきます。そのようなベンヤミンの歴史哲学が、今歴史を生きることへ向けて何を問いかけているのかを明らかにしながら、〈残余からの歴史〉の構想を深められればと考えています。いずれその構想の一端をお伝えする機会もあろうかと思います。こうして研究を進め、その初期の成果をドイツ語でまとめる傍らで、他の仕事も並行して進めておりましたので、六月はあっという間に過ぎていきました。

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ベルリン植物園のキタリス

それから、研究とは関係ありませんが、中旬には、娘がお世話になっているヴァイオリンの先生の教室の発表会の冒頭で、家族の三重奏でヴィオラをほんの少しだけ弾きました。ドヴォジャークのミニアチュールのうち、最初のモデラートの曲だけを露払いのような感じで演奏しました。気分転換にと思って持って行った楽器を、いちおう聴衆のいる場で弾くことになるとは思ってもいませんでした。ちなみに娘は、こちらの公立の小学校に通いながら、放課後はおおむねヴァイオリンを練習しています。ドイツ語でのコミュニケーションはままならないながらも、学校の友達とは仲良く遊んでいるようで、放課後に遊びに誘われたり、誕生日のパーティーに招かれたりすることも増えてきました。最近は、劇場や演奏会場に通うのも楽しみになってきたようで、今度はいつ行くのかとしばしば尋ねられます。この六月は、演奏会やオペラの公演へ家族でかなりの回数足を運びました。

そのなかで最も感動的だったのが、シュターツカペレ・ベルリンの演奏会でした。音楽の生成のダイナミズムを掘り下げたイェルク・ヴィトマンの《コン・ブリオ》の鮮やかな演奏で幕を開けたこの演奏会では、それに続くバルトークのピアノ協奏曲第1番の第二楽章の演奏が、まず素晴らしかったです。この楽章では、アンドラーシュ・シフの独奏が、ピアノの両側に配された打楽器と、密やかなとも形容すべき緊密な対話を繰り広げ、一つの別世界を開いて見せました。そこでさざめく声たちが、徐々に結びついて嘆きにも聞こえる強い歌を響かせるに至る音楽の展開には、心からの感動を覚えました。そして、休憩の後のベートーヴェンの《エロイカ》交響曲の演奏は、フル編成の弦楽器を存分に生かして、葬送行進曲に示されるような峻厳さを含めたこの交響曲の大きさを描ききった、圧倒的な演奏でした。ダニエル・バレンボイムの指揮は、荒々しさを含んだリズムの躍動を、大きなスケールで捉えられた音楽の流れに見事に結びつけていました。

他の演奏会では、協奏曲の素晴らしい演奏に接することができました。まず、ロジャー・ノリントン指揮のベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会では、イザベル・ファウストがモーツァルトの第4番のヴァイオリン協奏曲で、ほとんどヴィブラートなしの冴えた音を創意豊かに生かした、それでいて様式感にも富む、見事な独奏を聴かせてくれました。また、イヴァン・フィッシャー指揮のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の演奏会では、スティーヴン・イッサーリスが、すがすがしく広がる響きとしなやかな歌心に満ちたシューマンのチェロ協奏曲の演奏を披露してくれました。それから、下旬に一人で聴いたヤニク・ネゼ゠セガン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では、リザ・バティアシヴィリが、バルトークのヴァイオリン協奏曲第1番の内容豊かな演奏を聴かせてくれました。彼女は、歌が連綿と連なるこの曲の音楽の展開を、完全に手中に収めていました。

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ベルリン植物園の薔薇

ベルリン・フィルハーモニーの演奏会では、バルトークの協奏曲の後に、ショスタコーヴィチの交響曲第13番《バビ・ヤール》が演奏されました。このオーケストラにこそ可能な、仮借のない凄まじさと明晰さを両立させたこの曲の演奏を聴きながら、この曲が今取り上げられる意味も考えざるをえませんでした。ナチス・ドイツとソヴィエト連邦の戦争が始まった翌日の1941年6月23日から、移動特別部隊によるバルト海沿岸から黒海に至る地域での組織的なユダヤ人虐殺──最も大規模な虐殺がバビ・ヤールで起きたのでした──が始まっています。それから75年になるのに合わせた今回の演奏会のプログラムだったようです。そのような暴虐を可能にした問題そのものは、けっして過ぎ去ってはいません。むしろより複雑化しながら広がっていることを、昨今の出来事は示しているのではないでしょうか。9月末からは、テロルのトポグラフィーで、主に旧ソ連におけるユダヤ人虐殺をテーマとする展覧会が始まりますが、それはこの問題を考える機会ともなるでしょう。

オペラでは、いずれもニーナ・ステンメが主役を歌った、ベルリン・ドイツ・オペラにおけるヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》R・シュトラウスの《エレクトラ》の公演がとくに印象に残りました。前者では、第二幕が素晴らしい密度を示していました。例の長大な愛の二重唱で、主役の二人の役を歌ったステンメとステフェン・グールドがとても繊細な歌唱を聴かせて、息を重ねるのが聞こえるようですらありました。それを支える、ドナルド・ラニクルズの指揮によるオーケストラの響きも充実していながら、透明感を保っていました。精神分析も参照しつつ、夢と覚醒の関係にも光を当てた《トリスタンとイゾルデ》の舞台でもありました。後者の公演は、エレクトラの復讐心と復讐の成就への歓喜も、クリュテムネストラの悪夢も、もはや知性による統制が利かない、人間性と獣性の閾で展開されることにオペラの焦点があることを提示するものとして興味深く観ました。この公演でもステンメが繊細かつ輝かしい歌唱を聴かせていました。

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ベルリン植物園の睡蓮

この六月には、演劇の公演へも二つ足を運びました。一つは、シャウビューネでのシラーの『ヴァレンシュタイン』の公演で、シラーが約十年かけて書いた三部作の原作を一晩の舞台に凝縮させた、ミヒャエル・タールハイマーの演出による上演でした。三十年戦争期の傭兵隊長を主人公とするこの戯曲を今取り上げることを強く意識しながら、求心力の強い舞台を提示していました。苦悩するヴァレンシュタインの姿には、自分が仕掛けた戦争の泥沼にはまって身動きが取れなくなっていく現代の政治的指導者の姿と、ベンヤミンがバロック悲劇のうちに見て取った、決断できずに没落していく君主の像とが重ねられているように感じられました。もう一つは、東京の国立劇場で『つく、きえる』の表題で上演されたローラント・シンメルプフェニヒの戯曲„An und Aus“の公演で、ブルクハルト・C・コスミンスキの演出によるマインツの国民劇場の舞台でした。東日本大震災を題材に書かれたこの戯曲のユーモアを巧みに生かしつつ、死者たちのほろ苦い物語によって、震災と原発事故後の傷ついた現在を深いところから照らし出す„An und Aus“の上演として、とても興味深く観ました。

それにしても、この六月には例の“Brexit”を宣するに至ったイギリスの国民投票を含め、社会的にも大きな出来事がいくつもありましたが、イギリスの下院議員ジョー・コックスの暗殺事件、イスタンブール空港での無差別攻撃事件、そして七月に入ってから起きて、20名を超える人々が犠牲になったダッカでの人質事件など、凄惨な事件が相次いだのには胸が痛みます。そして、これらの事件には、通底する問題が潜んでいるようにも思われます。その問題は、日本に住む人々にとってもけっして他人事ではないでしょう。日本では参議院選挙が近づいていますが、こうした事件が起きうる世界のなかで、一人ひとりがみずからの生を、不当な抑圧や差別を受けることなく生きうることへ向けて、同時にその可能性を相互に尊重し合える社会を、問題を一つひとつともに解決しながら築いていくことへ向けて、有権者が一票を投じることを、遠くから念じているところです。

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ベルリン通信II/Nachricht aus Berlin II

[2016年6月3日]

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庭に咲いていたスズラン

「妙なる月、五月に(Im wunderschönen Monat Mai)」。よく知られているように、ハインリヒ・ハイネの『歌の本』から採られた詩によるローベルト・シューマンの《詩人の恋》は、この言葉から始まります。この連作歌曲の第1曲に用いられた詩においてハイネは、五月に草木が花を咲かせるのに恋の開花を重ねるわけですが、そのように自然の生長と感情の湧出を結びつけられる背景には、言うまでもなく、ドイツ語圏の人々のこの月に対する特別な思いがあります。それを表わすのが、「花盛り(Maienblüte)」、「五月祭(Maifeier)」、「五月鰈(Maischolle)」といった「五月(Mai)」が語頭に付く言葉の数々なのでしょう。ドイツ語の辞書を開くと、そのような言葉が格別に多いことに驚かされます。

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オースドルフの廃墟の風景

そのような言葉の一つに、スズラン(Maiglöckchen)があります。スズランは、ドイツで好まれている春の花の一つで、ベルリンの住まいの庭でも可憐な花を咲かせていました。これをはじめとして、五月はまさに花盛りの季節なのですが、ドイツにいると、草木の花々が深い緑のなかでこそ光彩を放つことが実感されます。もちろん、春のまだ柔らかな日差しも欠かせません。それらを求めて、ドイツの人々はしばしばかなり長い散歩に出かけます。それに倣ってある晴れた日に、住まいのあるリヒターフェルデと隣町のテルトウのあいだに広がる草原へ出かけたことがありました。そこにはかつてオースドルフという農村があったのですが、1968年に旧東ドイツがアメリカ合衆国の管理区域とのあいだに緩衝地帯を造る際に、住民は強制的に移住させられ、村は破壊されてしまったそうです。木立のなかの散歩道を歩いているうちに、40年近く前に壊された農家の廃墟とおぼしい場所に辿り着きました。

この五月には、これまで活字をつうじてしか接することのなかった学者の講演に接する機会に恵まれました。まず、“Embodiment”(肉体化、具体化)をテーマとする現象学の学会の締めくくりに行なわれたベルンハルト・ヴァルデンフェルスの講演は、自己関係ないし自己再帰的な関係と、そこからこぼれ落ちる異他的な次元とが身体においてつねに相即していることを、自然と文化の接点として詳細に論じるものでした。また、ダーレム人文学センターの「ヘーゲル講義」として行なわれたエレーヌ・シクスーの講演“Ay yay! The Cry of Literature”は、文学の営みの新たな地平を開く、感銘深い内容のものでした。「叫ぶこと(Schrei)」と「書くこと(Schreiben)」のあいだを縫って、音声としては消え去っていく叫びの「死後の生」を定着させて展開させる「書記」の営為を、そこに内在する殺害の問題にも触れながら、その可能性において問う講演として聴きました。

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ポンピドゥー・センターのクレー展看板

五月の下旬には再びパリへ出かけ、ポンピドゥー・センターで開催されている大規模なパウル・クレー展「作品におけるイロニー」に関連して二日にわたりGoethe-Institut Parisにて開かれた国際コロック「パウル・クレー──新たな視点」を聴きました。すでに「ベルリン通信I」でご紹介したように、この展覧会にはヴァルター・ベンヤミンが私蔵していた《新しい天使》が出品されている(ただしオリジナルは最初の2か月のみ)のですが、コロックで聴いたアニー・ブールヌフさんの発表によると、その水彩画の台紙には宗教改革者マルティン・ルターを描いた19世紀の版画が使われていて、その隅にはこの版画のモデルと目されるルターの肖像の作者ルーカス・クラナッハのモノグラムが暗示されているそうです。ベンヤミンは、そのことにどれほど気づいていたのでしょうか。

このコロックでは、クレーの画業がその前史と後史も含めて浮き彫りにされるとともに、同時代の芸術運動との関連においても検討されました。そのことは、クレーとピカソの関係に焦点が絞られた観のある展覧会の内容を補完するものでもあったように思われます。ただし、ここで付け加えておかなければならないのは、今回の展覧会のように、クレーの画業をその最初期から最晩年に至るまで通観できるのみならず、《Insula Dulcamara》をはじめとする大規模な作品もまとまったかたちで見られる展覧会は、きわめて稀だということです。ポンピドゥー・センターのクレー展の会期は8月1日までです。それまでにパリへお出かけになる機会のある方には、ご覧になることを強くお薦めいたします。なお、11月からはベルンのパウル・クレー・センターで、クレーとシュルレアリスムの関係を照らし出す展覧会が開催されるとのこと。こちらも見逃せません。

さて、五月のベルリンでは、演奏会やオペラなどの公演が盛んに行なわれていたわけですが、研究などが忙しく、あまり頻繁に出かけることはできませんでした。観たなかで興味深かったのは、コーミッシェ・オーパーで行なわれたヘルベルト・フリッチュの演出によるモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の公演と、州立歌劇場で行なわれたミヒャエル・タールハイマーの演出による《魔弾の射手》の公演でした。前者では、作品の「ドラマ・ジョコーゾ」としての側面をブラック・ユーモアも交えながら掘り下げ、登場人物の無意識の欲動にまで迫ろうとする演出によって、見ごたえのある舞台を提示されていたと思います。後者では、作品の内実を深く掘り下げ、悪の問題に迫った演出が印象的でした。狩人をはじめとする村の人々の身ぶりの様式化には、共同体という閉域に対する批判的な眼差しも込められていたと感じました。マックス役を歌ったアンドレアス・シャーガーの歌唱を含め、音楽も非常に充実した《魔弾の射手》の公演でした。六月はもう少し多く演奏会場や劇場へ出かけたいと思います。

相変わらず、ベルリン自由大学の文献学図書館などの施設を利用しながら、〈残余からの歴史〉の概念の理論的な探究に接続されるべきベンヤミンの歴史哲学の研究に没頭していたわけですが、現在その現時点での成果を六月末のコロキウムで報告すべく、論文をまとめつつあるところです。主に批判版全集の第19巻に収録された「歴史の概念について」のテクストを検討して見えてきたことと、これまでの研究を結びつけるかたちで執筆を進めています。そろそろ日本語の草稿をドイツ語に翻訳していかなければなりません。他にもいくつかの仕事を並行して進めておりますが、その成果は7月末から8月にかけてお届けできるものと思います。

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ヒロシマ・ナガサキ広場の表示

それから、四月の末のことになりますが、現在の研究とも通底する内容の二点の拙論を公表する機会に恵まれました。一つは、6月23日まで横浜美術館で開催されている展覧会「複製技術と美術家たち──ピカソからウォーホルまで」のカタログに寄稿した「切断からの像──ベンヤミンとクレーにおける破壊からの構成」です。ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」をはじめとする著作で示している、完結した形象の破壊、技術の介入によるアウラの剝奪、時の流れの切断などをつうじて新たな像の構成へ向かう発想を、クレーがとくに第一次世界大戦中からその直後にかけての時期に集中的に示している、作品の切断による新たな像の造形と照らし合わせ、両者のモティーフの内的な類縁性と同時代性にあらためて光を当てようと試みるものです。もう一点は、法政大学出版会から刊行された『続・ハイデガー読本』に収録された「ブロッホ、ローゼンツヴァイク、ベンヤミン──反転する時間、革命としての歴史」という小論で、これら三人のユダヤ系の思想家と、初期のハイデガーの時間論と歴史論を照らし合わせ、ユダヤ系の思想家たちが構想する「救済」と結びついた歴史の理論と、『存在と時間』の「歴史性」の概念に最初の結実を見ることになるハイデガーの歴史論との差異を見通す視座を探る内容のものです。

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広島と長崎の原爆犠牲者追悼モニュメント

早いもので、「妙なる月」はすでにうち過ぎ、六月にさしかかっているわけですが、五月の最後の日には、ポツダム郊外のグリーブニツ湖畔のヒロシマ・ナガサキ広場に置かれた、広島と長崎への原子爆弾の投下による犠牲者を追悼するモニュメントを見ることができました。碑銘が刻まれ、それぞれ広島と長崎で被爆した石が埋め込まれた石板と、核による苦しみが今も続いていることの重さを感じさせる大きな石とから成るモニュメントの造形は、彫刻家の藤原信さんによるものですが、モニュメントの設置に尽力したのが、ベルリンで高分子物理化学の研究を積み、ベルリン工科大学などで教鞭を執った後、自身の広島での被爆体験を証言し続けた外林秀人さんだったそうです。このモニュメントは、1945年7月25日に当時のアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンが原子爆弾投下の命令を下したとされる邸宅に向き合うかたちで置かれています。文学的な装いを持ちながら、相変わらず原爆を投下する立場から語られる現在のアメリカ大統領の広島での「所感」を聞きながら、このことの意味を考えなければならないと思いました。